崔済愚 (さいせいぐ)
【概説】
19世紀半ばの李氏朝鮮において、西欧列強の浸透とキリスト教(西学)の拡大に対抗し、独自の民族宗教である「東学」を創始した思想家。万人の平等を説いて困窮する農民層から圧倒的な支持を得たが、王朝から邪教の開祖として弾圧され、処刑された。死後、その教えは近代東アジアの動乱の引き金となる「東学党の乱」へと受け継がれていくこととなる。
東学創始の背景と「西学」への対抗
19世紀半ばの朝鮮半島(李氏朝鮮)は、王室の外戚が権力を独占する「勢道政治」の弊害により、官僚の腐敗や農民への過酷な搾取(三政の紊乱)が極限に達していた。さらに、アヘン戦争以降の東アジアにおける欧米列強の進出(異国船の出没)や、中国を経由して流入したキリスト教(カトリック)の拡大は、当時の朝鮮社会に強い危機感をもたらした。朝鮮では、この西欧の学問や宗教を「西学」と呼んで警戒した。
没落両班の出身であった崔済愚は、こうした内憂外患の社会を救うべく思索を重ね、1860年に新たな宗教を創始した。彼は、西学に対抗して東方である朝鮮の学問・宗教であるという意味を込めて、これを「東学」と名付けた。東学は、伝統的な儒教、仏教、道教(神仙思想)の教理を融合させ、さらに民間信仰(シャーマニズム)の要素を取り入れた、極めて民族主義的かつ大衆的な新宗教であった。
平等思想の提示と国家による弾圧
崔済愚が説いた東学の根本思想は、すべての人間は心に「天主(てんしゅ)」を宿しており、人間こそがすなわち天であるとする「人乃天(じんないてん)」(または「侍天主」)の教えであった。これは、李氏朝鮮を支配していた厳格な両班・中人・常民・賤民という身分秩序を根本から否定し、万人の平等を主張する画期的なものであった。
この平等の教えは、官僚の搾取や飢饉に苦しんでいた南部の慶尚道や全羅道の農民、さらには社会的に差別されていた階層に爆発的な勢いで広がった。しかし、身分制の維持を図る朝鮮政府は、東学の平等の思想や急速な組織化を「国法を乱し、民心を惑わす邪教」として危険視した。1863年末、崔済愚は政府に捕らえられ、翌1864年に大邱(たいきゅう/テグ)において「左道惑衆(邪教で大衆を惑わした罪)」により斬首に処された。
近代東アジア史における歴史的意義
創始者である崔済愚の刑死により、東学は一時的に大打撃を受けたが、その教えは弾圧を逃れた2代教主の崔時亨(さいじこう/チェ・シヒョン)によって地下で継承・組織化され、さらに教勢を拡大していった。
崔済愚が蒔いた種は、彼の死から30年後の1894年、朝鮮南部を中心とする大規模な農民蜂起である甲午農民戦争(東学党の乱)として結実する。この反乱の鎮圧を名目に、日清両国が朝鮮へ出兵したことが日清戦争の直接的な契機となった。崔済愚の創始した東学は、単なる一過性の宗教運動にとどまらず、日本による朝鮮半島の保護国化・植民地化へと繋がる、近代東アジアの国際政治を激変させる歴史的潮流の源流となったのである。