台湾
【概説】
日清戦争の講和条約である下関条約によって清国から日本へ割譲され、第二次世界大戦終戦までの50年間、日本の最初の本格的な外地(植民地)となった島。台湾総督府を通じた統治の下で近代的なインフラ整備や産業開発が進められた一方で、現地住民に対しては徹底した同化政策がとられた。
日本による台湾領有の経緯と抵抗運動
1895(明治28)年、日清戦争に勝利した日本は、下関条約によって清国から遼東半島、澎湖諸島とともに台湾の割譲を受けた。これにより、日本は近代国家として初めて本格的な海外領土(植民地)を保有することとなった。しかし、この割譲は現地住民の意志を無視したものであったため、台湾在住の漢人官僚や在地知識人は激しく反発し、「台湾民主国」の建国を宣言して日本の接収に抵抗した。
日本は台湾平定のために軍隊を派遣し、武力による鎮圧(乙未戦争)を行った。台湾民主国は短期間で崩壊したものの、その後も各地で農民や原住民による抗日武装ゲリラ闘争が数年間にわたって展開され、日本側も多大な犠牲を払いながら力で押さえつける事態となった。
台湾総督府の設置と武断政治
日本は台湾を統治するため、台北に台湾総督府を設置した。初期の台湾総督には陸海軍の大将または中将が任命され、軍事権だけでなく行政権や立法権も掌握する強大な権限が与えられた。特に1896年に制定された六三法(台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律)により、総督の命令が法律と同等の効力を持つことが認められ、帝国議会の統制が及ばない特別統治体制が敷かれた。
統治機構が安定を見せ始めるのは、第4代総督の児玉源太郎と、民政長官の後藤新平の時代である。後藤は現地の旧慣を尊重しつつ、徹底した土地調査や人口調査(国勢調査)を実施して統治の基礎を固めた。また、鉄道網の敷設、港湾の建設、上下水道の整備などのインフラ構築を推進する一方、アヘン吸飲の漸禁政策や、製糖業をはじめとする産業振興を行い、台湾総督府の財政的独立を達成した。しかし、これらの近代化政策は、日本本国の資本主義の発展を支えるための食糧・原料供給基地としての役割を台湾に担わせるものであった。
内地延長主義への転換と産業の発展
第一次世界大戦後、世界的に民族自決の気運が高まり、日本国内でも大正デモクラシーが勃興すると、台湾統治の方針も変化した。1919(大正8)年、初の文官総督として田健治郎が就任し、台湾を日本内地と同様に扱う「内地延長主義(同化政策)」が唱えられた。これにより、台湾人に対する教育制度の拡充や、地方自治の一部導入が図られた。しかし、台湾人から求められた帝国議会への参政権付与や、台湾議会設置請願運動などの政治的要求は退けられ、日本人(内地人)と台湾人(本島人)の間の事実上の差別は存続した。
経済面では、日本の食糧不足を補うために台湾米の増産(蓬萊米の開発)が奨励されたほか、八田與一らによる烏山頭ダムなどの大規模な水利事業も完成し、農業生産高は飛躍的に向上した。台湾は「糖と米」の供給地として、大日本帝国の経済圏に深く組み込まれていった。
皇民化運動の展開と日本統治の終焉
1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、台湾総督には再び武官が任命されるようになり、戦争遂行のための強力な精神的動員が図られた。これが皇民化運動である。日本語の使用が徹底され、新聞の漢文欄が廃止されたほか、台湾人に日本式の姓名を名乗らせる改姓名(創氏改名)、神社参拝の強要などが行われ、台湾人の伝統的な文化やアイデンティティは激しく抑圧された。
太平洋戦争が激化すると、台湾も軍需工業化が推し進められ、南進の重要拠点と位置づけられた。さらに兵力不足を補うため、台湾人に対する特別志願兵制度、のちには徴兵制が施行され、多くの台湾人が戦地へと動員された。1945(昭和20)年の日本の敗戦に伴い、ポツダム宣言に基づいて台湾は中華民国政府に返還(接収)されることとなり、50年間に及んだ日本の台湾統治は幕を閉じた。