第2次山県有朋内閣 (だいにじやまがたありともないかく)
【概説】
初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)の崩壊後、山県有朋が組織した超然主義を掲げる藩閥内閣。政党勢力の台頭を抑え込み、官僚や軍部の自立性を守るための制度改革を断行した政権である。
隈板内閣の崩壊と「超然」の再構築
1898年、日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(憲政党)が、閣内の内紛(共和演説事件など)によってわずか4ヶ月で自壊した。これを受けて、明治維新以来の藩閥体制の維持を強硬に主張する元勲・山県有朋が、再び首相の座に就いた。これが第2次山県有朋内閣である。
山県は本来、政党を排除する「超然主義」の立場をとっていたが、懸案であった軍備拡張のための地租増徴案を可決させるため、一時的に憲政党(旧自由党系)と提携する道を選んだ。この妥協により、地租率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴を成立させ、日露戦争前夜の軍拡資金を確保することに成功した。しかし、山県にとって政党との妥協は一時的な手段に過ぎず、その真の狙いは、政党の権力がこれ以上官僚組織や軍部に浸透しないように「防波堤」を築くことにあった。
官僚・軍部への政党進出を阻む制度改革
山県内閣は、政党の影響力が官僚組織に及ぶのを防ぐため、1899年に文官任用令を改正した。これにより、自由な任用を制限して官僚への登用ルートを厳格な試験(高等文官試験)の合格者に限定し、政党員が猟官運動によって官職に就く道を事実上閉ざした。これは、近代的な官僚制の独立性を高めると同時に、政党の弱体化を狙ったものであった。
さらに1900年には、陸海軍の大臣を現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を導入した。この制度は、退役・予備役の将官を排除することで、政党員が陸海軍大臣として入閣することを防ぎ、軍の統帥権の独立を守る目的で制定された。しかし、この制度は後に、軍部が気に入らない内閣に対して大臣を出さず、あるいは引き揚げることで内閣を倒す・組織させないという、軍部による政治介入の強力な武器として悪用されることとなった。
社会運動への弾圧と義和団事件
日清戦争後の産業革命にともない、日本国内では労働運動や社会主義運動が萌芽し始めていた。山県内閣は、これら新たな社会変革の動きに対処するため、1900年に治安警察法を制定した。同法は、労働運動、小作争議、政治集会などを厳しく規制・処罰するものであり、昭和期に制定される治安維持法と並び、戦前の治安立法(社会運動弾圧)の基盤となった。
外交面では、1900年に清国で発生した義和団事件(北清事変)に対し、地理的な近さを生かして連合軍の中で最多の兵力を派遣した。この迅速かつ規律正しい出兵は欧米列強から高く評価され、後の1902年における日英同盟結成の重要な契機となった。
このように、第2次山県有朋内閣は、藩閥官僚勢力の防衛線となる諸制度(文官任用令改正、軍部大臣現役武官制、治安警察法)を相次いで完成させた後、伊藤博文による政党(立憲政友会)結成という新たな政界再編の動きに直面し、退陣へと追い込まれた。