維新の三傑
【概説】
倒幕運動から明治新政府の樹立、および初期の国政において極めて大きな功績を残した、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人の総称。いずれも薩摩藩および長州藩の出身であり、近代日本の礎を築いた最大の功労者として評価されているが、明治10年代初頭までに相次いで非業の死や病死を遂げた。
明治維新を牽引した三人の英傑
維新の三傑とは、幕末の動乱期において倒幕運動を主導し、その後の明治新政府で中核的な役割を果たした薩摩藩出身の西郷隆盛・大久保利通、および長州藩出身の木戸孝允(旧名:桂小五郎)を指す呼称である。幕末期、西郷と大久保は島津久光の公武合体運動を支えた後に武力倒幕へと藩論を転換させ、一方の木戸は過激な尊王攘夷運動の挫折を乗り越えて長州藩を統率した。1866(慶応2)年、坂本龍馬らの仲介により結ばれた薩長同盟において、彼らは両藩の代表として提携を主導し、これが江戸幕府を打ち倒す決定的な原動力となった。
廃藩置県と新政府の建設
1868年の王政復古の大号令を経て新政府が樹立されると、三者はそれぞれの持ち味を活かして国家建設に奔走した。戊辰戦争においては西郷が実質的な官軍の総司令官として江戸無血開城などを実現し、新政府の軍事的基盤を固めた。その後、1871(明治4)年に断行された廃藩置県は、西郷が統率する軍事力(御親兵)を背景に、大久保や木戸が綿密な政治工作を行うことで初めて成し遂げられた中央集権化の決定打であった。大久保と木戸は同年出発の岩倉使節団の副使として欧米を視察し、近代国家の圧倒的な国力を目の当たりにして内政整備の必要性を痛感することとなる。
征韓論争による分裂と対立
しかし、新政府の路線をめぐって三傑の歩調は次第に乱れていく。岩倉使節団の不在中、留守政府を預かっていた西郷らは、朝鮮への使節派遣を巡る征韓論争を引き起こした。1873(明治6)年に帰国した大久保や木戸は、内治優先(富国強兵・殖産興業)を掲げてこれに猛反対し、いわゆる明治六年政変で西郷らは下野した。その後、大久保は内務省を設立して強力な指導力のもとで独裁的な近代化政策(有司専制)を推し進めたが、急激な変革は士族の強い反発を招いた。木戸もまた大久保の独裁的な手法や台湾出兵に抗議して一時政府を離れるなど、三傑間の亀裂は決定的なものとなった。
三傑の相次ぐ死と歴史的意義
近代日本の方向性を決定づけた三人は、奇しくも明治10(1877)年前後に相次いでこの世を去った。1877年、不平士族の反乱の最大規模である西南戦争が勃発し、反乱軍の盟主として推し出された西郷は、大久保率いる政府軍に敗れて城山で自刃した。木戸は西南戦争のさなか、京都で病床に伏し、「西郷、いいかげんにしないか」と嘆きながら病死した。そして翌1878年、新政府の最高権力者として君臨していた大久保も、東京で不平士族によって暗殺された(紀尾井坂の変)。
三傑が退場した後、伊藤博文や山県有朋ら次世代の長州・薩摩出身者たちが実権を握り、大日本帝国憲法の制定や内閣制度の創設など、三傑が思い描いた近代国家の枠組みを完成させていくことになる。彼ら三人の個性と能力のぶつかり合いは、そのまま明治国家創成期の産みの苦しみであったと言える。