長州藩(幕末)
【概説】
現在の山口県にあたる周防国・長門国の2か国を領有し、幕末から明治維新にかけて薩摩藩とともに倒幕の主導的役割を果たした外様藩。毛利氏を藩主として過激な尊王攘夷運動を展開したのち、挫折を経て開国・武力倒幕へと路線を転換し、薩摩藩と結んで江戸幕府を打倒した。
関ヶ原の遺恨と藩政改革による基盤構築
長州藩の藩主である毛利氏は、戦国時代には中国地方の大半を支配する大大名であったが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた結果、周防・長門の2か国(約36万石)に大幅に減封された。この歴史的経緯から、長州藩内には徳川幕府に対する潜在的な反感が脈々と受け継がれていたとされる。
幕末の動乱期において長州藩が飛躍できた背景には、19世紀前半に行われた実効性の高い藩政改革が存在する。天保期に村田清風らが主導した改革では、撫育方(ぶいくかた)と呼ばれる特別会計機関を通じて莫大な借財を整理し、紙や蝋などの専売制を強化することで藩財政の再建に成功した。さらに、下関を拠点とした越荷方(こしにかた)による金融・委託販売業務で巨額の利益を上げ、これが後に軍制改革や西洋兵器の購入など、武力倒幕運動を支える強固な経済的基盤となったのである。
尊王攘夷運動の過激化と相次ぐ挫折
幕末期、長州藩は吉田松陰が主宰した松下村塾を中心に、高杉晋作、桂小五郎(後の木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤博文など、後に明治維新の元勲となる多くの若き志士たちを輩出した。彼らは急進的な尊王攘夷思想を抱き、朝廷内の攘夷派公家と結びついて京都の政局を主導した。
しかし、1863年の八月十八日の政変によって薩摩藩や会津藩などの公武合体派に京都から追放されると、事態は急転する。翌1864年、勢力挽回を図って京都に軍勢を進めた禁門の変(蛤御門の変)で敗北し、長州藩は「朝敵」の汚名を着せられた。さらに同年、外国船への砲撃に対する報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊から下関を攻撃され、砲台を占拠されるという致命的な敗北を喫した(下関戦争)。
藩論の転換と薩長同盟の結成
相次ぐ軍事的敗北と、幕府による第一次長州征討の圧迫を受け、藩内では一時、幕府への恭順を主張する保守派(俗論派)が実権を握った。しかし、これに対して高杉晋作らが功山寺で挙兵し、身分を問わず編成された奇兵隊などの諸隊を率いて内戦に勝利する。この政変により、藩論は単なる攘夷の不可能性を悟り、「開国・武力倒幕」へと大きく転換した。
とはいえ、長州藩単独での倒幕は困難であった。そこで1866年、土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、かつての政敵であった薩摩藩との間に薩長同盟(薩長盟約)が極秘裏に結ばれた。これにより薩摩藩名義で最新鋭の武器を調達できた長州藩は、大村益次郎の指導のもとで西洋式軍制への移行を強力に推し進めた。同年の第二次長州征討(四境戦争)では、近代的な装備と高い士気を持つ長州軍が幕府軍を各地で圧倒し、幕府の権威を完全に失墜させる決定的な要因となった。
倒幕の達成と明治国家への多大な影響力
薩摩藩とともに討幕の密勅を受けた長州藩は、1867年の大政奉還後、王政復古の大号令を主導して新政府を樹立した。その後の戊辰戦争においても、長州藩兵は新政府軍(官軍)の中核として鳥羽・伏見の戦いから東北戦争にかけて多大な軍功を挙げ、江戸幕府を最終的な滅亡へと追いやった。
明治時代に入ると、廃藩置県(1871年)によって長州藩は消滅して山口県となったが、その政治的影響力は失われなかった。木戸孝允をはじめ、伊藤博文、山県有朋、井上馨といった長州出身者が新政府の要職を独占したのである。彼らは薩摩藩出身者とともに強力な藩閥政治(薩長閥)を形成し、大日本帝国憲法の制定、内閣制度の創設、近代的な陸軍の構築など、日本の近代国家建設において絶大な権力を振るい続けた。