血税 (けつぜい)
【概説】
明治政府が1872年に発した「徴兵告諭」において、国民の兵役義務を比喩的に表現した言葉。フランス語の直訳であったが、当時の農民層に「国家に生血を吸い取られる」という文字通りの誤解を与え、激しい徴兵反対一揆(血税一揆)を引き起こす契機となった。
徴兵告諭における「血税」の文脈と意図
明治新政府は、富国強兵を推し進めて近代的な国民軍を創設するため、1872(明治5)年11月に徴兵告諭を発し、翌1873年1月に徴兵令を公布した。この徴兵告諭の一節に「西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報ずるの謂(いい)なり」という表現が用いられた。
これは、フランス語で兵役の義務を意味する「impôt du sang(血の税)」を直訳したものであり、国民が自らの肉体を挺して国家に奉仕するという精神的な比喩表現であった。しかし、それまで「徴兵」という概念すら知らなかった一般の民衆、とりわけ農民たちにとって、この直訳調の近代的なレトリックはあまりに難解であり、かつ衝撃的なものであった。
デマの拡散と「血税一揆」の勃発
「血税」という言葉は、新政府の急進的な改革に対して不信感を抱いていた農民たちの間で、文字通り「若者の生血を抜いて西洋人に売る」「軍隊に入ると血を絞り取られる」といった恐怖の流言飛語(デマ)として瞬く間に広がった。さらに、当時は赤絨毯を「血を吸い取った敷物」と噂したり、牛肉を食べたり牛乳を飲んだりする開化風俗を警戒する風潮もあったため、デマは高い現実味をもって受け止められた。
この誤解を契機として、1873年から1874年にかけて、山陰、山陽、四国、九州などの各地で、徴兵制に反対する激しい農民一揆(血税一揆または徴兵反対一揆)が勃発した。一揆勢は、新設された小学校(学制への反発)や役所、警察、あるいはキリスト教関係施設などを「洋風化の象徴」として襲撃し、政府の急進的な近代化政策への激しい怒りを示した。
近代化のひずみと「血税」の歴史的意義
「血税」をめぐる混乱は、単なる言葉の誤解にとどまらず、明治新政府と民衆との間の深い意識の乖離(情報ギャップ)を浮き彫りにした事件であった。当時の農民にとって、一君万民の思想に基づく「国民皆兵」や「四民平等」は、先祖伝来の家業や地域コミュニティを破壊する脅威に他ならなかった。
政府はこれらの反対一揆を軍隊や警察の力で厳しく鎮圧したが、一方で、徴兵令の運用にあたっては戸主や後継ぎ(嗣子)、官吏、学生などを免除する広範な免役規定を設けざるを得なくなった。この結果、初期の徴兵制は主に農家の二男・三男以下に負担が集中する不完全なものとなり、のちの1889(明治22)年の大改正まで、不平等な徴兵逃れの横行を許す要因となった。