中学校
【概説】
1872(明治5)年の「学制」に基づき、全国の中学区に1校ずつの設置が計画された近代日本最初の中等教育機関。小学校と大学の間を結ぶ普通教育の場として構想された。当初は財政難などから設置が進まなかったが、のちの「中学校令」を経て、近代国家を支える男子エリート養成のための「旧制中学校」へと発展を遂げた。
「学制」における理想と設置の挫折
明治政府は1872(明治5)年、国民皆学を目指して学制を発布した。この学制において、全国を8つの大学区に分け、それぞれの大学区に32の中学区(全国で計256区)を設け、各中学区に1校ずつ中学校を設置する壮大な計画が立てられた。学制における中学校は、小学校を卒業した14歳から19歳までの若者を対象とし、英語や理数科などの高等な普通教育を授ける機関として位置づけられた。
しかし、当時の地方財政の窮迫や、就学をめぐる民衆の負担(授業料や建築費)への反発から、小学校の設置すら困難を極める状況であった。そのため、巨額の費用を要する中学校の設置はほとんど進まず、学制発布から数年が経過しても、実際に開校できた中学校は全国でわずか数校から十数校程度という極めて低調な滑り出しとなった。
「中学校令」による再編とエリート教育への特化
学制の挫折と教育令期を模索した政府は、1886(明治19)年、初代文部大臣・森有礼のもとで中学校令(学校令の一部)を制定し、中等教育制度の大幅な再編を断行した。これにより、中学校は「実業を営む者」や「上等ノ学校」に進学する者のための機関として再定義され、5年制の尋常中学校と、2年制の高等中学校(のちの旧制高等学校)に区分された。
この再編によって、中学校は一般庶民の教育機関というよりも、官僚や技術者などを目指して帝国大学へと進学する優秀な男子をふるいにかける、極めて選抜性の高いエリート養成機関(旧制中学校)としての性格を強めていく。この体制は、戦後の教育改革によって「新制中学校」が男女共修の義務教育機関として新たに発足するまで、日本の近代教育システムの中核を担い続けた。