開成学校 (かいせいがっこう)
【概説】
江戸幕府の洋学研究・教育機関であった開成所を明治新政府が接収・再建した、近代日本における初期の官立高等教育機関。洋学教育の中核を担い、のちに「大学南校」へと改称され、最終的に東京大学へと発展する系譜の起点となった存在。
幕府「開成所」から新政府「開成学校」への継承
江戸幕府が設立した洋学研究機関である開成所(蕃書調所、洋書調所などを前身とする)は、戊辰戦争の混乱に伴って一時閉鎖を余儀なくされていた。しかし、近代国家の建設を急ぐ明治新政府は、幕府が蓄積してきた洋学の知見や翻訳書、さらに優秀な人材の価値を高く評価した。そのため、1868(明治元)年閏4月にこれを接収し、同年9月に「開成学校」として復興・開校させた。これは、新政府が旧幕府の知的遺産を断絶させることなく、そのまま自らの近代化政策に組み込んだ象徴的な出来事であった。
復興された開成学校では、英語・フランス語・ドイツ語などの外国語教育が重視され、理化学や数学、地理学といった西洋の先進的な学術の組織的教育が開始された。教授陣には、幕臣から新政府に出仕した前島密や、のちの文部大臣となる森有礼ら、当時第一線の知識人が名を連ねた。
学制改革と「大学南校」への改称
1869(明治2)年、明治新政府は新たな教育体系を構築するため、昌平学校(旧幕府の昌平坂学問所)、医学所(旧幕府の医学所)、そして開成学校の3校を統合し、日本の最高教育・行政機関として「大学」を創設した。この際、儒学・国学を講じる昌平学校が「大学本校」とされたのに対し、洋学を担う開成学校は「大学南校」、医学を担う医学所は「大学東校」へとそれぞれ改称された。
しかし、学問のあり方をめぐって保守的な大学本校(国学・儒学派)と、近代化を推進する大学南校・東校(洋学派)との間で激しい対立が生じた。この「学制論争」の結果、本校は1870年に閉鎖され、以後の日本の高等教育は南校と東校を中心とする洋学中心主義へと一本化されていくこととなった。
「東京開成学校」への再編と最高学府への発展
その後、大学南校は「南校」、「第一大学区第一番中学」などの頻繁な制度変更を経て、1873(明治6)年に「東京開成学校」へと改組された。この時期には単なる語学教育機関脱却を図り、法学、理学、工学などの専門分科を授ける実質的な高等教育機関へと成長を遂げた。
そして1877(明治10)年、東京開成学校は東京医学校(旧・大学東校)と合併し、日本最初の近代的高等教育機関である東京大学(のちの帝国大学、現在の東京大学)として統合された。幕末から明治への激動期において、開成学校が果たした西洋学術の移植と近代エリートの育成という役割は、日本の近代化を精神的・技術的側面から支える基盤となった。