李鴻章 (りこうしょう)
【概説】
清代末期の政治家・外交官、軍人。直隷総督兼北洋大臣として清の外交・軍事の実権を握り、近代化政策である洋務運動を推進した人物。明治期の日本においては、日清修好条規の締結から日清戦争後の下関条約に至るまで、対日外交における最大の交渉相手として立ちふさがった。
日清修好条規と対等外交の模索
1871年(明治4年)、日本と清の間で初の近代的な対外条約である日清修好条規が締結された。この際、清側の全権として交渉を主導したのが、直隷総督に就任したばかりの李鴻章であった。彼は西洋列強の脅威に対抗するため、隣国である日本との連携を視野に入れつつも、日本の近代化と対外膨張の野心を強く警戒していた。
交渉の結果、同条約は欧米列強がアジア諸国と結んだ不平等条約とは異なり、領事裁判権の相互承認や関税協定の双務性など、互いに主権を認め合う対等な条約として締結された。しかし、その後の日本による琉球処分や朝鮮進出は、清を中心とする従来の「華夷秩序(冊封体制)」を揺るがすこととなり、李鴻章は日本の動きを牽制するための外交交渉に苦慮することになる。
朝鮮半島をめぐる日清対立と天津条約
1880年代に入ると、朝鮮半島の宗主権をめぐる日清間の対立が本格化した。特に1884年、ソウルで親日派の開化党(独立党)が起こしたクーデター(甲申政変)に対し、李鴻章が派遣した袁世凱率いる清軍が介入したことで、日清両軍が直接衝突する危機が生じた。
この事態を打開するため、翌1885年に日本の全権・伊藤博文と清の全権・李鴻章との間で天津条約が締結された。李鴻章は老獪な外交手腕を発揮し、日清両国の朝鮮からの共同撤兵と、将来の出兵時における「相互の事前通告義務」を取り決めた。これにより一時的に衝突は回避されたが、後の甲午農民戦争(東学党の乱)に際してこの事前通告を根拠に双方が兵を出したことが、日清戦争勃発の直接的な契機となった。
日清戦争の敗北と下関条約の調印
1894年に始まった日清戦争において、李鴻章が心血を注いで組織した近代的陸海軍(淮軍および北洋艦隊)は、近代化を遂げた日本軍の前に壊滅的な敗北を喫した。これにより、彼が主導してきた近代化改革「洋務運動」の限界が露呈することとなった。
敗戦の責任を負った李鴻章は、1895年に清の全権として山口県赤間関(下関)に赴き、伊藤博文や陸奥宗光との間で講和交渉(下関講和会議)に臨んだ。交渉期間中、日本人暴漢(小山豊太郎)に狙撃されて負傷するという大事件が発生したが、この事件による日本側の国際的体面の動揺を逆手に取り、賠償金の減額などの一定の妥協を引き出した。結果として下関条約に調印し、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾の割譲、多額の賠償金の支払いを受け入れた。この敗北は、李鴻章の政治的地位を大きく失墜させるとともに、中国分割という清朝滅亡へのカウントダウンを加速させることとなった。