集会条例
【概説】
1880(明治13)年に明治政府が制定した、政治的な集会や結社の自由を厳しく制限する弾圧法令。自由民権運動のなかで全国的に高揚する国会開設運動を抑え込むため、警察官による集会の監視・解散権限を大幅に強化し、運動の組織化や連携を阻むことを目的とした。
国会開設運動の高揚と政府の危機感
1870年代後半から活発化した自由民権運動は、1880年3月に大阪で結成された国会期成同盟を中心に、全国的な「国会開設請願運動」へと発展した。各地の民権派は、数十万人規模の署名を集めた請願書を政府に提出しようと画策し、言論と組織力をもって政府を包囲する構えを見せた。これに対し、有司専制を維持しつつ天皇親政による国家体制の構築を模索していた明治政府(太政官)は、運動の急速な拡大に強い危機感を抱いた。政府は、民権派の組織的連携を分断し、輿論の結集を阻止するための法的な対抗策を講じる必要に迫られたのである。
集会条例の内容と警察官の臨検権限
1880年4月5日、太政官布告第12号として集会条例が制定された。この条例の最大の特徴は、政治活動に対する徹底的な警察権の介入を認めた点にある。政治的な集会や結社を組織する際には、事前に警察署へ届け出て許可を得ることが義務付けられた。さらに、集会には警察官の臨検が認められ、その演説内容が「安寧秩序を妨げる」と判断された場合には、警察官の裁量によってその場で集会の解散を命じることができた。また、国家秩序を支えるべき軍人・警察官をはじめ、将来の運動の担い手となる教員・生徒(学生)の政治結社への加入や集会への参加、政治演説の聴講までもが全面的に禁止された。
条例の改正と民権運動の変容
集会条例の制定に対し、民権派は学術討論会や懇親会などの名目で法網を潜り抜けようと試みたが、政府は1882(明治15)年に条例をさらに改正(強化)してこれに対抗した。改正された条例では、政治結社どうしの連絡や、本部と地方支部との間の連絡通信(他社との連結)が全面的に禁止された。この措置は、前年に結成されていた自由党や立憲改進党などの全国的な近代政党活動に対して致命的な打撃を与えた。合法的な言論・集会活動の道が閉ざされたことは、一部の過激化した民権派を地下活動や地方での武力蜂起(激化事件)へと走らせる一因ともなり、日本の初期政党政治の展開に大きな歪みをもたらすこととなった。