足利義材(足利義稙) (あしかがよしき / あしかがよしたね)
【概説】
室町幕府の第10代、および復権して第12代を務めた将軍。管領である細川政元が起こしたクーデター「明応の政変」によって将軍職を追われ、各地を流浪した。この政変は幕府権威の致命的な失墜を招き、日本史が戦国時代へと本格的に突入する契機となった。
将軍就任と「明応の政変」による挫折
足利義材は、8代将軍・足利義政の弟である足利義視の子として生まれた。9代将軍・足利義尚が近江守護の六角高頼を討伐中に陣没したことを受け、義政の養子となる形で1489年に10代将軍に就任した。義材は、前代から続く将軍権力の再興を目指し、自ら軍を率いて六角氏討伐や河内国の畠山氏討伐(河内遠征)を積極的に行った。しかし、こうした強硬な将軍親政は、幕府の実権を握ろうとする管領・細川政元との間に深い対立を生むこととなった。
1493年、義材が河内に出兵している隙を突き、細川政元は京都でクーデターを決行した。政元は義材を廃位し、足利政知の子である足利義澄を11代将軍に擁立した。これが日本史上の大きな画期となる明応の政変である。この政変により、将軍は管領の意向によってすげ替えられる傀儡(かいらい)的存在へと転落し、室町幕府の最高権力者としての権威は事実上失墜した。
「流れ公方」としての流浪と将軍職への復帰
政変によって捕らえられた義材であったが、幽閉先から脱出することに成功する。その後、越前国の朝倉氏や加賀国の一向一揆、さらには周防国の守護大名である大内義興など、各地の有力勢力を頼って転々と亡命生活を送った。このため、義材は後世に「流れ公方(ながれくぼう)」とも呼ばれることとなった。
1508年、義材は中国地方の雄である大内義興の強力な軍事支援を受け、細川政元の養子である細川高国と結託して京都への進撃を開始した。11代将軍・義澄を近江国へと追い落とし、京都を奪還した義材は、再び将軍職(第12代)への復帰を果たした。この再登板の前後、義材は名を「義尹(よしただ)」、さらに「義稙(よしたね)」へと改名している。
再度の没落と歴史的意義
念願の将軍復帰を果たした義稙であったが、その権力基盤は不確かなものであった。大内義興が領国への帰還を余儀なくされると、幕府の実権を掌握した管領・細川高国との間で政治的対立が再び激化する。自立的な政治を望む義稙は高国と対立し、1521年に再び京都を出奔して阿波国へと逃れた。これにより将軍としての地位を完全に失い、1523年に阿波の地で寂しく没した。
足利義材(義稙)の波乱に満ちた生涯は、室町将軍家の没落と下剋上の世への移行を象徴している。彼を追放した「明応の政変」を境に、将軍の命令が全国に及ばなくなり、各地の守護大名は自立した「戦国大名」へと脱皮していく。義材の没落は、室町幕府が名実ともに戦国時代の荒波に飲み込まれていく過程そのものであった。