姉川の戦い (あねがわのたたかい)
【概説】
1570年(元亀元年)、近江国の姉川周辺において織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政・朝倉義景の連合軍を打ち破った激戦。この合戦により浅井・朝倉両氏は大きな打撃を受けたが完全に滅亡するには至らず、のちの「信長包囲網」による激しい抵抗の幕開けとなった。
合戦に至る背景と浅井氏の離反
1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、幕府の権威を背景に周辺大名へ上洛を求めたが、越前国の朝倉義景はこれを拒否した。1570年4月、信長は朝倉氏を討伐するため、徳川家康の援軍とともに越前への侵攻を開始した。
しかしこの行軍中、信長の妹であるお市の方を娶り、同盟関係にあった北近江の浅井長政が突如として信長に反旗を翻した。浅井氏は長年にわたって朝倉氏と深い友好関係(同盟関係)にあり、信長の越前侵攻を座視できなかったのである。挟み撃ちにされる危機に陥った信長は、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や明智光秀らに殿(しんがり)を任せ、自身は命からがら京都へと逃れ帰った。これを金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)と呼ぶ。
態勢を立て直した信長は、背信した浅井氏を討つべく、同年6月に再び徳川家康とともに近江へ出兵し、浅井氏の居城である小谷城に迫った。これに対し、浅井軍は朝倉氏からの援軍を迎え入れ、両軍は浅井郡を流れる姉川を挟んで対峙することとなった。
両軍の激突と戦いの経過
1570年6月28日、姉川を挟んで織田・徳川連合軍(約2万8千)と浅井・朝倉連合軍(約1万8千)が激突した。布陣は、西側に徳川軍と朝倉軍、東側に織田軍と浅井軍がそれぞれ相対する形となった。
戦闘が始まると、浅井軍は鋭い突撃で織田軍の陣形を次々と突破し、信長の本陣近くまで肉薄するほどの猛攻を見せた。織田軍は一時崩壊の危機に直面するなど、予想以上の苦戦を強いられた。
一方、西側の戦線では、徳川家康率いる徳川軍が朝倉軍に対して優位に戦いを進めていた。徳川軍の榊原康政らが朝倉軍の側面に奇襲をかけて陣形を崩すことに成功すると、朝倉軍は敗走を始めた。この機を逃さず、徳川軍の一部や織田軍の別働隊が、信長本陣へ迫っていた浅井軍の側面を突いた。これにより形勢は一気に逆転し、包囲される形となった浅井・朝倉連合軍は多数の有力武将を失いながら小谷城へと退却した。
戦いの結果と歴史的意義
姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わったが、浅井・朝倉両軍の主力を完全に殲滅したわけではなく、小谷城の陥落にも至らなかった。そのため、浅井・朝倉両氏は依然として信長を脅かす勢力として存続し続けた。
この敗戦を機に、浅井・朝倉両氏は比叡山延暦寺や石山本願寺(一向一揆)、さらには南近江の六角氏や甲斐の武田信玄らと結びつき、反信長勢力の一大ネットワークである「第一次信長包囲網」を形成することとなる。同年秋には、浅井・朝倉軍が比叡山に立て籠もって信長と長期の対陣(志賀の陣)を行うなど、信長はその後数年間にわたり四方からの攻撃に苦しむこととなった。
したがって姉川の戦いは、単なる局地戦の勝利にとどまらず、その後の比叡山焼き討ち(1571年)や浅井・朝倉両氏の滅亡(1573年)へと連なる、織田信長の天下布武への過酷な道のりを決定づけた重要な転換点として位置づけられる。