織田信雄

信長の次男で、秀吉の台頭に反発して家康と結び、小牧・長久手の戦いを起こした武将は誰か?
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重要度
★★

織田信雄 (おだのぶかつ)

1558年〜1630年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名であり、織田信長の次男。本能寺の変後の織田家後継者争いの中で台頭し、羽柴(豊臣)秀吉の覇権に対抗して徳川家康と結び小牧・長久手の戦いを引き起こした人物である。

信長後継をめぐる暗闘と秀吉との協調

織田信雄は、織田信長の次男として生まれた。当初は伊勢国の北畠氏の養子に入り、南伊勢を支配した。1579年には父・信長に無断で伊賀国へ侵攻して大敗を喫し(第一次天正伊賀の乱)、信長から厳しい叱責を受けたことでも知られる。しかし、1582年の本能寺の変によって信長が倒れると、織田家の有力な後継者候補の一人となった。

信長亡き後の織田家の方針を決める清洲会議において、信雄は弟の織田信孝(三男)と対立した。秀吉が擁立する信長嫡孫の三法師(のちの織田秀信)が家督を継ぐことで合意がなされたが、実質的な後見人をめぐる争いは続いた。信雄は秀吉と手を結び、信孝や彼を支持する柴田勝家を滅ぼすことに成功する。この結果、信雄は尾張・伊勢・伊賀などを支配する大名となったが、急速に実権を掌握していく秀吉に対して次第に警戒感を強めていった。

小牧・長久手の戦いと単独講和

秀吉の天下統一への動きに危機感を抱いた信雄は、秀吉から送り込まれた三家老を処刑し、決別を宣言した。この際、信雄は三河国の徳川家康と同盟を結んだ。こうして1584年、信雄・家康の連合軍と羽柴秀吉との間で小牧・長久手の戦いが勃発する。

戦局は、家康の巧みな軍事指揮によって、局地戦(長久手の戦い)で羽柴軍を破るなど連合軍に有利に進んだ。しかし、物量で勝る秀吉は、信雄の領地である伊勢や尾張への直接侵攻や調略を進めた。経済的・軍事的に追い詰められた信雄は、同盟相手である家康に事前に相談することなく、秀吉との間で単独講和を結んでしまった。大義名分を失った家康も撤退を余儀なくされ、結果としてこの戦いは秀吉が天下人としての地位を固める決定打となった。

豊臣政権下での改易と徳川大名としての復権

講和後、信雄は秀吉の臣下として豊臣政権に組み込まれた。しかし1590年、小田原征伐後の論功行賞において、徳川家康の旧領(駿河・遠江・三河など)への転封を命じられた際、これを拒絶したため秀吉の逆鱗に触れて改易処分となり、常陸国へ流罪となった。のちに豊臣秀頼の誕生に伴う恩赦により赦免され、豊臣家の御伽衆(相談相手)として仕えた。

1614年からの大坂の陣においては、豊臣方から総大将としての参戦を要請されたものの、これを拒絶して大坂城を退去し、徳川方に与した。戦後、江戸幕府からその功を認められ、大和国宇陀郡や上野国甘楽郡などに領地を与えられ、再び大名としての地位を回復した。信雄の系統は、紆余曲折を経ながらも外様大名として江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎えることとなる。

織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書 2421)

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織田信長と安土城

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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