足利直冬 (あしかがただふゆ)
【概説】
南北朝時代の武将で、室町幕府の初代将軍・足利尊氏の庶子。のちに叔父である足利直義の養子となり、観応の擾乱では直義派の急先鋒として中国・九州地方で尊氏軍と激しい抗争を展開した重要人物である。
不遇な生い立ちと養父・直義との絆
足利直冬は、足利尊氏が若かりし頃に、側室(一色氏の娘とされる越前局)との間に儲けた長子(庶子)である。しかし、尊氏からは実子としての認知を得られず、正室である赤橋登子が生んだ異母弟の足利義詮や足利基氏らとは異なり、冷遇された不遇な幼少期を過ごした。一時は出家させられて東山に置かれていたが、その器量に目を留めた叔父の足利直義が、周囲の反対を押し切って引き取り、自身の養子とした。この生い立ちによる尊氏への確執と、直義への深い恩義が、のちの歴史を大きく動かす動機となった。
観応の擾乱における西国の指導者
室町幕府創設後、幕府内における将軍・尊氏(および執事の高師直)と、実質的な政務を握る直義との対立が激化し、天下を二分する内乱である観応の擾乱が勃発する。直冬は養父・直義の代弁者として西国へ下向し、備後国を拠点に独自勢力の構築を図った。直冬の軍事的才能は極めて高く、山名氏をはじめとする西国の有力国人や守護を急速に組織化していく。これに脅威を感じた尊氏が自ら直冬討伐のために西国遠征を行うなど、直冬は観応の擾乱における「第三の勢力」として、中央の政局をも左右する存在感を発揮した。
南朝との提携と退潮
1352年に養父・直義が尊氏によって毒殺(急死)されると、直冬は尊氏に対する復讐の念を強め、自立路線を明確にする。自らの軍事的基盤を維持するため、それまで敵対していた南朝(吉野朝廷)に帰順し、南朝の権威を利用して尊氏・義詮の政権に立ち向かった。一時は京都を一時的に占領するほどの攻勢を見せたが、南朝方との足並みの乱れや、九州における征西将軍・懐良親王(南朝方)との主導権争いにより、徐々に勢力圏を狭められていった。2代将軍・足利義詮の時代になると、直冬を支持していた山名氏などが幕府方に帰順したことで孤立し、最後は石見国(島根県)などに潜伏して歴史の表舞台から静かに姿を消した。