大内氏 (おおうちし)
【概説】
周防国・長門国(現在の山口県)を本拠地とし、室町時代から戦国時代にかけて中国地方や九州北部を支配した有力な守護大名・戦国大名。朝鮮や明との独自の交易によって巨万の富を築き、本拠地の山口を「西の京」と呼ばれる一大文化都市へと発展させた。しかし、16世紀半ばに家臣の謀反による内紛が生じ、急速に衰退して滅亡に至った。
東アジア諸国との交易と守護大名としての躍進
大内氏は、古代の百済王仙の後裔を称する独自の出自を持つ一族である。南北朝の動乱期に北朝(室町幕府)側に帰順したことで周防・長門の守護職を獲得し、守護大名としての地位を確立した。大内氏の最大の強みは、朝鮮半島や中国大陸に近いという地理的優位性を活かした対外交易にあった。朝鮮王朝や明との間で独自に外交・交易を展開し、莫大な富を領国にもたらした。特に日明貿易(勘合貿易)をめぐっては、細川氏と激しく対立。1523年の寧波の乱において細川氏の交易船を力ずくで排除したことで、日明貿易の実権を完全に掌握・独占し、その全盛期を迎えることとなった。
「西の京」山口の繁栄と大内文化の開花
大内氏が本拠地とした周防国の山口は、京都を模した先進的な都市計画に基づいて整備され、いつしか「西の京」と称されるほどの繁栄を遂げた。応仁の乱によって戦火に包まれた京都から、多くの公家や文化人が大内氏の庇護と豊かな経済力を頼って山口へと下向した。これにより、京都の伝統文化と大陸の先進的な文化が融合した、独自の華麗な大内文化が形成された。画聖と謳われた雪舟が活動し、連歌師の宗祇らが訪れたのも山口である。さらに、1551年には来日した宣教師フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与え、日本におけるキリスト教布教の端緒を開くなど、南蛮文化の受容にもきわめて先駆的な姿勢を示した。
家臣の謀反と毛利氏による大内氏の滅亡
大内義興、そしてその子である大内義隆の時代に最盛期を迎えた大内氏であったが、その繁栄は突如として終焉を迎える。尼子氏との戦い(月山富田城の戦い)での大敗を機に、当主の義隆は軍事を忌避し、学問や文化、朝廷への官位工作に沈溺するようになった。これに対し、相良武任らを中心とする文治派と、守護代の陶晴賢(陶隆房)らを中心とする武断派との対立が激化。1551年、実力行使に出た陶晴賢によって義隆は自害に追い込まれた(大寧寺の変)。晴賢は大内義長を傀儡の当主として擁立したが、主君殺しの暴挙は領内の動揺を招き、大内氏の支配力は大きく低下した。この隙を突いて急速に勢力を拡大した安芸の毛利元就によって、1555年の厳島の戦いで陶晴賢が敗死。1557年には大内義長も自害に追い込まれ、名門・大内氏は滅亡した。