足利義尚

足利義政と日野富子の間に生まれ、応仁の乱の最中に9歳で第9代将軍に就任した人物は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★

足利義尚 (あしかがよしひさ)

1465〜1489

【概説】
室町幕府の第9代征夷大将軍。第8代将軍足利義政と日野富子の間に生まれた実子であり、その誕生を巡る家督争いは応仁の乱を引き起こす大きな要因となった。長じてからは失墜した幕府権威の復権を目指し、近江の守護六角氏の討伐など積極的な親政を行ったが、遠征先の陣中で早世した。

応仁の乱の契機となった将軍後継問題

足利義尚の誕生は、室町幕府の運命を大きく揺るがすこととなった。父である第8代将軍足利義政には長年後継ぎがなく、義政は出家していた弟の足利義視を還俗させ、次期将軍に指名していた。しかしその翌年、義政の正室である日野富子が義尚を出産したことで事態は一変する。

富子は実子である義尚を将軍に据えるため、有力守護大名である山名宗全(持豊)を後ろ盾に引き込んだ。これに対抗して義視は管領の細川勝元と結託し、将軍家の後継争いは、斯波氏や畠山氏といった守護大名家の家督争いとも結びついて複雑化していった。この対立が、1467年(応仁元年)に勃発した全国規模の内乱である応仁の乱の主要な原因となったのである。乱の最中の1473年(文明5年)、義尚はわずか9歳で将軍職を譲られ、第9代征夷大将軍に就任した。

将軍権力の再建と近江六角氏討伐

応仁の乱は1477年(文明9年)に終息したものの、守護大名の権力闘争の舞台となった京都は荒廃し、幕府の権威は地に落ちていた。成人した義尚は、実権を握り続けようとする父・義政や母・富子の介入から脱し、将軍の親政による幕府権力の回復を強く志向するようになる。義尚は文武両道に優れ、特に政治・軍事面において強い指導力を発揮しようとした。

その象徴的な行動が、1487年(長享元年)から開始された六角征伐(長享・延徳の乱)である。近江国(現在の滋賀県)の守護である六角高頼は、応仁の乱の混乱に乗じて公家や寺社の荘園(本所領)を不法に押領していた。義尚は幕府の法秩序を回復するため、自ら諸大名や将軍直属の軍事力である奉公衆を率いて近江国へと遠征(鈎の陣)し、六角高頼を敗走させた。この将軍による自らの一大軍事行動は、一時的に幕府の権威を大きく高めることに成功した。

若き将軍の陣没とその後の影響

しかし、近江の山岳地帯に逃亡した六角高頼はゲリラ戦を展開し、戦況は長期化した。義尚は近江の鈎(まがり)の陣に滞在し、そこを仮の幕府として軍事指揮と政務を取り仕切ったが、長引く過酷な陣中生活により心身ともに疲弊していった。

1489年(延徳元年)3月、義尚は遠征先の鈎の陣中において、25歳(満23歳)の若さで病死した。将軍自らが命を賭した親政は、志半ばで挫折することとなった。義尚に子がなかったため、後継にはかつて対立した足利義視の子である足利義材(のちの義稙)が迎えられたが、義政の死も重なり、幕府権力を支える主軸は完全に失われた。義尚の死は、幕府が自力で地域秩序を統制できる最後の機会の喪失を意味し、1493年の明応の政変を境に、室町幕府は完全に実権を失い、戦国時代の本格化へと向かうこととなった。

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最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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