南北朝文化 (なんぼくちょうぶんか)
【概説】
建武の新政から南北朝の動乱期にかけて、京都を中心に展開した過渡的かつ躍動的な文化。従来の公家による伝統的権威や既成の秩序が否定される一方で、実力を高めた武士や庶民のエネルギーを背景とした革新的な風潮が色濃く反映された。この時期に醸成された独自の美意識や精神は、のちの室町文化(北山文化・東山文化)の確固たる源流となった。
伝統的秩序を揺るがす「バサラ」の流行
南北朝時代は、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の挫折、そして朝廷の東西分裂(南北朝合一まで約60年間続く大乱)という、未曾有の政治的動乱期であった。このような既存の権威が揺らぐ流動的な社会を背景に、従来の秩序や道徳観を意図的に否定し、実力主義や新奇さを重んじる「バサラ(婆沙羅)」と呼ばれる風潮が流行した。
「バサラ」とは、華美な服装で身を飾り、傲慢で奔放な振る舞いをすることを指す。その代表格とされたのが、美濃国守護の土岐頼遠や、近江国守護の佐々木道誉(高氏)などの新興守護大名である。彼らは天皇や上皇といった伝統的権威を恐れず、奢侈な生活を送り、破天荒な行動を好んだ。このバサラの精神は、実力を重視する「下剋上」の世相を象徴するものであり、のちの戦国時代の気風や織豊期の「かぶき者」へつながる、日本文化における美意識の一大潮流を形成した。
新興勢力の台頭と文芸・芸能の変容
この時代には、従来の貴族的な枠組みに捉われない、武士や庶民(庶民層の中でも「能動的な活動を行う人々」)を巻き込んだ新しい文芸や芸能が活発化した。
文芸面においては、複数人で和歌の上の句と下の句を交互に詠み継いでいく連歌(れんが)が大流行した。特に身分を問わずに集まる「寄合(よりあい)」の場で広く親しまれ、貴族の二条良基は、救済(ぐさい)らとともに連歌の規則を定めた『菟玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、連歌を芸術的な域にまで高めた。また、南北朝の激しい動乱の展開を臨場感豊かに描いた軍記物語の傑作『太平記』が著され、後世の武士の倫理観や歴史観に多大な影響を与えた。
さらに芸能分野では、農耕儀礼に由来する田楽や、滑稽なものまねから発展した猿楽が、武士や庶民の間で熱狂的な人気を博した。これらはやがて足利義満の庇護を受けた観阿弥・世阿弥親子による能楽の大成へとつながっていく。
動乱期における歴史意識の深化
激しい南北の対立と政治的分裂は、知識人たちに「自らの正統性とは何か」を問い直させ、歴史書や思想書の執筆を促す契機となった。
南朝側の有力な公卿であった北畠親房は、幼少の後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)に皇位継承の正統性を示すため、『神皇正統記』を著した。この中で親房は、「大日本は神国なり」とする神国思想を唱え、南朝こそが正しい皇統であることを論理的に基礎づけようとした。これに対し、室町幕府(北朝)側では、足利氏の政権獲得の経緯を肯定的に記述した『梅松論(ばいしょうろん)』が著された。このように、政治的な立場から自らの歴史的正当性を強く主張し合う中で、日本独自の歴史観や政治思想が深められていった点も、南北朝文化の重要な側面である。