山崎宗鑑 (やまざきそうかん)
【概説】
室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した連歌師、俳諧連歌の祖。武家出身であったが主君の死を機に出家し、格式を重んじる正風連歌の堅苦しさを嫌って、滑稽や諧謔を主とする『犬筑波集』を編纂した。日常語や卑俗な題材を積極的に取り入れ、後の俳諧文学発展の基礎を築いた。
武士から遁世者への転身
山崎宗鑑は、近江国志賀郡の出身で、本名は志那範重(のりしげ)であったと伝えられている。元々は室町幕府第9代将軍・足利義尚に仕える武士であった。しかし、長享3年(1489年)に主君である義尚が六角氏討伐(鈎の陣)の最中に陣没すると、その死を深く悼んで出家・遁世したとされる。その後は山城国山崎(現在の京都府大山崎町)に庵を結んで「宗鑑」と名乗り、世俗を離れた隠遁生活を送りながら、和歌や連歌に親しむ文人としての歩みを始めた。
正風連歌の形式化に対する反発
室町時代中期、宗祇らによって大成された連歌(正風連歌)は、貴族や武士の間に深く浸透し、高い芸術性を誇っていた。しかしその反面、句を詠む際の式目(ルール)が極めて複雑かつ厳格になり、自由な発想や庶民的な感情を表現しにくい堅苦しいものとなっていた。宗鑑は、こうした優美さや格式ばかりを重んじる正風連歌の風潮に飽き足らず、より自由で滑稽味に富んだ遊戯的な連歌の世界に惹かれていった。彼は日常語(俗語)や洒落、卑俗な題材を積極的に取り入れ、民衆の生活感情に根ざした「俳諧の連歌(俳諧)」を追求したのである。
『犬筑波集』の編纂と庶民文芸の確立
宗鑑の日本文学史における最大の功績は、俳諧連歌集『新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)』(通称『犬筑波集』)の編纂である。この書名は、南北朝時代に二条良基が撰んだ連歌の正統な撰集『菟玖波集(つくばしゅう)』をもじり、「犬(劣った、卑俗な)」を冠したものである。この作品集には、従来の連歌ではタブーとされた滑稽、諧謔、機知、さらには性的な事象までが奔放に詠み込まれている。宗鑑は自らの句だけでなく、幅広い階層の人々が詠んだ句を集め、それまで連歌の余興や息抜きとして詠まれていた俳諧を、一つの独立した文芸ジャンルにまで引き上げた。これにより、宗鑑は伊勢の神官である荒木田守武とともに「俳諧の祖」と並び称されることとなる。
後世の俳文学に与えた多大な影響
晩年の宗鑑は、戦乱の続く畿内を避け、四国の讃岐国(現在の香川県観音寺市)に移り住み、興昌寺の境内に「一夜庵(いちやあん)」を結んで自由闊達な余生を過ごした。彼の生み出した俗語を用いる表現様式や反骨精神は、江戸時代に入って松永貞徳が創始した貞門派俳諧に受け継がれた。さらにそれは西山宗因の談林派、そして松尾芭蕉の蕉風俳諧へと至る日本俳文学の壮大な系譜の出発点となった。武士という身分を捨て、権威や形式主義を笑い飛ばした宗鑑の存在は、中世から近世へと向かう転換期において、新しい庶民文芸の幕開けを告げる極めて重要な歴史的意義を持っている。