天文法華の乱 (てんぶんほっけのらん)
【概説】
1536(天文5)年、京都で強力な自治支配を確立していた法華一揆(日蓮宗徒)に対し、その勢力拡大を危惧した比叡山延暦寺の衆徒(僧兵)らが洛中を焼き討ちし、法華衆を京都から追放した事件。戦国期の京都における宗教対立の激化と、町衆による都市自治の盛衰を象徴する大規模な武力衝突である。
法華一揆の台頭と京都の自治
応仁の乱によって焦土と化した京都では、復興の過程で裕福な商工業者を中心とする町衆(まちしゅう)が台頭し、自衛と自治のための結合を強めていた。この町衆の間に広く浸透していたのが、現世利益や職能の肯定を説く日蓮宗(法華宗)である。法華宗徒は強い信仰心帯で結ばれ、各町ごとに強固な武装集団を形成していった。
1532(天文元)年、畿内で勢力を拡大していた一向一揆(浄土真宗)が京都に迫ると、室町幕府の実力者である細川晴元は法華衆に協力を要請した。これに応じた法華衆は一向一揆を撃退し、さらに一向宗の拠点であった山科本願寺を焼き討ちにするという多大な戦果を挙げた。この勝利により、京都における法華衆の権威は絶大なものとなり、以後約5年間にわたって彼らが地子銭(土地税)の免除や自衛・警察権の行使など、京都の自治を実質的に掌握する法華一揆の時代が到来した。
比叡山延暦寺との対立と「松本問答」
法華一揆による京都の支配は、旧来の宗教的権威や権門勢力にとって看過できない脅威であった。とくに日本仏教の頂点に君臨し、京都に多くの経済的権益を有していた天台宗の比叡山延暦寺は、法華衆の急激な勢力拡大と他宗排撃(折伏)の姿勢に強い危機感を抱いていた。
両者の対立が決定的なものとなったのは、1536(天文5)年に発生した「松本問答」と呼ばれる宗論(宗教論争)である。上総国から上洛していた法華宗の熱心な信者・松本久吉が、延暦寺の僧である大蔵坊を論破したという噂が広まり、これが延暦寺側の激しい面目潰しと受け取られたのである。激怒した延暦寺の衆徒は法華衆に対して「法華宗を天台宗の末寺とするか、さもなくば京都から退去せよ」と強硬な要求を突きつけたが、武装と結束に自信を持つ法華一揆側はこれを断固として拒否した。
洛中焼き討ちの惨劇
法華一揆の徹底抗戦の構えを受けた延暦寺は、朝廷や室町幕府から法華衆討伐の許可を取り付け、大義名分を得た。さらに、近江の有力守護大名である六角定頼や越前の朝倉氏らの軍勢も延暦寺側の援軍として加わった。総勢数万とも言われる大軍が京都を包囲し、1536年7月、ついに洛中への大規模な侵攻が開始された。
法華衆も激しく抗戦したが、大軍による圧倒的な攻撃と四方からの火攻めにより防衛線は崩壊した。この焼き討ちによって、京都にあった法華宗の21本山はことごとく灰燼に帰し、下京の市街地の大部分が焼失した。その被害は応仁の乱を上回る規模であったとも伝えられている。生き残った法華衆は京都を追われ、同じく自治都市として繁栄していた和泉国の堺などへと逃れることを余儀なくされた。
事件の歴史的意義と法華衆のその後
天文法華の乱は、戦国時代における宗教勢力の武力衝突の激しさを示すと同時に、京都の町衆が独自に築き上げた都市自治の時代が一度終焉を迎えたことを意味する歴史的転換点であった。これにより、室町幕府は京都における統制力をある程度回復し、延暦寺も失われつつあった権威を一時的に誇示することとなった。
しかし、商業の担い手であった法華衆がいなくなった京都は経済的に大きく衰退してしまった。そのため、朝廷や幕府の仲介、さらには六角定頼の斡旋もあり、乱から約6年後の1542(天文11)年には朝廷から法華衆の帰洛を許す勅許が下された。これにより法華衆は再び京都に戻り、寺院の再建と商業活動を再開したものの、かつてのような強大な軍事力や排他的な自治権力(法華一揆)を再構築することは二度となかった。