犬追物

鎌倉武士の軍事訓練で、馬上から竹の柵に放ち入れた犬を、先を丸くした矢で射る武芸を何というか?
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★★★

犬追物 (いぬおうもの)

【概説】
鎌倉時代に確立した武士の武芸訓練の一つで、馬場に放たれた犬を馬上から非殺傷の特殊な矢で射る競技。流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)とともに「騎射三物」と称され、室町時代には武家社会を代表する華やかな儀礼や見世物として隆盛を極めた。

「騎射三物」と称された実戦的訓練

鎌倉時代の武士にとって、馬上から弓を射る技術は「弓馬の道」と呼ばれ、最も根幹となる戦闘スキルであった。その技術向上のための訓練として盛んに行われたのが、流鏑馬(やぶさめ)笠懸(かさがけ)、そして犬追物(いぬおうもの)であり、これらは総称して騎射三物(きしゃみつもの)と呼ばれた。

直線を駆け抜けながら固定された的を射る流鏑馬や笠懸に対し、犬追物は円形の馬場内に放たれた「生きた犬」を標的とする。不規則に逃げ回る犬を追いかけ、馬を自在に操りながら矢を命中させるには、極めて高度な騎馬術と弓術の連携が要求された。そのため、単なる武芸の範疇にとどまらず、戦場における動的目標への射撃を想定した、最も実戦に近いシミュレーション訓練として重宝されたのである。

非殺傷を旨とするルールと馬場の構造

犬追物の最大の特徴は、標的となる犬を殺傷しないよう配慮されていた点である。矢は先端に丸い木や布で作られた頭を取り付けた犬打蟇目(いぬうちひきめ)という特殊なものが使用され、犬に当たっても怪我をさせない工夫が凝らされていた。これは、仏教的な殺生禁断の思想の影響を受けていると考えられている。

競技の舞台となる馬場は竹垣で二重に囲まれ、広範なスペースが確保された。一般的な作法では、36騎の射手が3組に分かれて交代で出場し、合計150匹もの犬が次々と放たれた。射手以外にも、判定を行う「検見(けみ)」や、犬を呼び込む「喚子(よびこ)」などの役職が配置され、命中した部位や射る姿勢によって得点が細かく定められていた。このように、犬追物は高度にルール化されたスポーツ的・競技的要素を強く持っていた。

室町時代の隆盛と弓馬故実の確立

鎌倉時代には純粋な武芸訓練として始まった犬追物だが、室町時代に入るとその性格は大きく変容する。足利将軍家が自らの権威や武威を誇示するための大規模な儀礼・見世物として重用したことで、京都を中心に大流行を見せたのである。初代将軍・足利尊氏や第3代将軍・足利義満らも好んで犬追物を催し、公家や民衆も観覧に訪れる一大エンターテインメントとなっていった。

この隆盛に伴い、競技の作法はさらに洗練・複雑化していった。小笠原氏武田氏伊勢氏といった弓馬の家によって「弓馬故実(きゅうばこじつ)」として厳密なルールや装束の規定が体系化され、武家社会における一種の典礼として不動の地位を築いた。犬追物の故実は、日本の武家文化の成熟を示す重要な指標となっている。

戦術の転換と倫理観の変化による衰退

室町時代に最盛期を迎えた犬追物であったが、戦国時代に入ると急速に衰退に向かう。その最大の要因は、鉄砲の伝来と足軽を中心とした集団密集戦術への移行である。個人技である騎射そのものの実戦的価値が相対的に低下したことで、武術訓練としての犬追物は意味を失っていった。

江戸時代に入ると、島津氏などの一部の有力大名によって復興が試みられ、将軍の御前で披露されることもあった。しかし、第5代将軍・徳川綱吉による生類憐れみの令の発布などに象徴されるように、時代が下るにつれて動物を標的とする娯楽に対する倫理的な忌避感が強まり、開催は困難となった。明治維新以降、社会構造の抜本的な変化に伴い犬追物は完全に姿を消したが、かつての武士が心身を鍛え上げた弓馬の伝統と、武家社会特有の豊かな精神文化を今に伝える貴重な歴史的遺産である。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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