流鏑馬 (やぶさめ)
【概説】
鎌倉武士の武芸訓練の一つで、疾走する馬上から一定の間隔に置かれた3つの的を次々と射る競技。笠懸・犬追物とともに「騎射三物」と称され、実戦的な軍事訓練であると同時に、神事としての高い儀式性を備えていた。
流鏑馬の起源と鎌倉幕府による奨励
流鏑馬の起源は古く、平安時代中期にはすでに宮廷の儀式や公家の行事として馬上から的を射る「馬上之的(うまのうえのまと)」などが行われていた。これが武士の台頭とともに武芸の要素を強めて発展したものである。鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の創設者である源頼朝が、御家人の武術奨励と精神鍛錬、そして天下泰平を祈願する神事としてこれを大いに奨励した。建久8年(1187年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた放生会(ほうじょうえ)において、頼朝の命により流鏑馬が奉納されたことは『吾妻鏡』にも詳細に記されており、これが武家における流鏑馬の確立期とされている。
「騎射三物」における位置づけと儀式性
鎌倉時代には、馬上から的を射る訓練として流鏑馬のほかに、笠懸(かさがけ)と犬追物(いぬおうもの)が存在し、これらは総称して騎射三物(きしゃみつもの)と呼ばれた。笠懸がより実戦に近い変則的な的を狙う訓練であり、犬追物が動く犬を追うことで動体視力と馬術を鍛える要素が強かったのに対し、流鏑馬は直線状の馬場(約2町=約218メートル)を疾走しながら、等間隔に立てられた3つの板的を次々と射抜くという定型化された形式を持っていた。また、矢には殺傷能力のない鏑矢(かぶらや)が用いられ、射手は狩装束などの厳格な作法に則って臨むなど、三物のなかでも最も神事・儀式としての色彩が強かった点が大きな特徴である。
鎌倉武士の戦闘スタイルと「弓馬の道」
流鏑馬が鎌倉時代に極めて重要視された背景には、当時の武士の戦闘スタイルが深く関係している。鎌倉期の合戦は、大鎧を着用した武士が馬に乗り、名乗りを上げてから一騎討ちを行う騎射戦(馬上からの弓矢による戦闘)が基本であった。したがって、手綱を離して馬を操りながら、揺れる馬上から正確に標的を射抜く技術は、武士にとって自らの生死を分ける必須の戦闘技能であった。さらに、こうした高度な技術の修練は単なる戦闘訓練にとどまらず、武士としての名誉や精神的支柱となる「弓馬の道」(のちの武士道へと連なる倫理観)を形成する重要な要素となっていた。
戦法の変化による実戦性の喪失と伝統文化への昇華
南北朝時代から室町時代にかけて、戦乱の長期化・大規模化に伴い、合戦の主役は騎馬武者による一騎討ちから、足軽を中心とした徒歩(かち)の集団戦法へと移行していった。さらに戦国時代に鉄砲が伝来すると、実戦における騎射の重要性は急速に失われ、流鏑馬などの騎射三物も一時衰退することとなる。しかし、江戸時代に入ると、8代将軍徳川吉宗が幕府の威信向上と武芸奨励を目的として、小笠原流や武田流といった弓馬故実(きゅうばこじつ)の家元に命じて流鏑馬を復興させた。これにより、流鏑馬は実戦の軍事技術から平和な時代の伝統的な武術儀礼へと完全に変質し、現代に至るまで各地の神社において天下泰平や五穀豊穣を祈る神事として受け継がれている。