北条貞時
【概説】
鎌倉幕府第9代執権(在職1284〜1301年)。平禅門の乱で権勢を振るっていた内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制政治を確立し、御家人救済の目的で永仁の徳政令を発布した人物。元寇後の激動の時代にあって幕府権力の強化に努めたが、根本的な社会矛盾を解決するには至らなかった。
若き執権の誕生と内管領の台頭
1284年(弘安7年)、二度の元寇(蒙古襲来)を退けた父である第8代執権・北条時宗が急死したことに伴い、貞時はわずか14歳で第9代執権に就任した。この若年での家督継承は、幕府内部に激しい権力闘争を引き起こすこととなる。貞時の就任直後、有力御家人で外祖父でもあった安達泰盛が幕政改革(弘安徳政)を主導しようとしたが、これに強く反発したのが北条氏得宗家の被官(御内人)のトップである内管領の平頼綱であった。
1285年の霜月騒動において、頼綱は泰盛ら安達一族を武力で滅ぼし、幕府の実権を掌握した。若き貞時はこの政争を抑え込むことができず、頼綱による恐怖政治と御内人の専横をしばらくの間許容せざるを得ない立場にあった。
平禅門の乱と得宗専制の完成
成長した貞時は、次第に平頼綱の傀儡であることを良しとせず、自ら親政を行うことを強く望むようになった。頼綱が自身の次男を将軍に据えようと画策しているとの噂も立ち、両者の対立は決定的なものとなった。1293年(正応6年)、鎌倉を大地震が襲い甚大な被害が出た。貞時はこの未曾有の混乱を好機と捉え、密かに軍兵を動員して頼綱の邸宅を急襲し、頼綱とその一族を討ち滅ぼした(平禅門の乱)。
この事件により、貞時は目障りな内管領勢力を一掃することに成功した。以後、幕府の要職を得宗家の当主とそれに直接従属する者たちで独占し、北条氏嫡流への極端な権力集中を図った。この貞時の親政期が、鎌倉幕府における得宗専制政治の完成期と評価されている。
永仁の徳政令の発布とその限界
貞時の親政下における最大の課題は、元寇以降に顕著となった御家人の窮乏問題であった。貨幣経済の浸透や分割相続による所領の細分化、さらには命懸けで戦ったにもかかわらず十分な恩賞が得られなかったという不満が、御家人の間に鬱積していた。これに対処するため、貞時は1297年(永仁5年)に鎌倉幕府として初となる永仁の徳政令を発布した。
この法令は、御家人が売却・質入れした所領を無償で取り戻せるようにし、さらに金銭貸借に関する訴訟(借上などの訴え)を幕府が受理しないという思い切った内容であった。しかし、一時的な救済にはなったものの、結果的に金融業者が御家人への貸し付けを渋るようになり、かえって御家人の経済的困窮を深めるという副作用をもたらした。結局、翌年には一部の条文が撤回され、幕府の経済政策は根本的な解決を見ないまま破綻を露呈することとなった。
嘉元の乱と幕府衰退の予兆
1301年(正安3年)、鎌倉に彗星が現れたことを凶兆とみなした貞時は出家し、執権職を従弟の北条師時に譲った。しかし、貞時はその後も出家姿のまま「大殿(おおとの)」として得宗の地位に留まり、幕府の実権を握り続けた。
だが晩年の貞時は、次第に政治を顧みなくなり、酒宴に耽ることが多くなったとされる。1305年(嘉元3年)には、貞時の密命を受けた北条宗方が幕府重鎮の北条時村を暗殺し、その後貞時が自らの関与を隠蔽するために宗方を討伐するという不透明な事件(嘉元の乱)が発生した。このように幕府中枢での陰惨な内紛が絶えなくなったことは、貞時の専制権力が綻びを見せ始めた証左であった。
1311年に貞時が病没すると、後を継いだのはわずか9歳の北条高時(後の第14代執権)であった。強力な指導者を失った幕府は再び内管領や外戚の専横を許すこととなり、結果的に貞時の治世は、鎌倉幕府が滅亡への坂を転げ落ちていく転換点となったのである。