伊勢平氏 (いせへいし)
【概説】
桓武平氏の系譜のうち、伊勢国(三重県)を拠点とした一族。院政期に白河・鳥羽・後白河の3代の上皇に軍事力として奉仕し、平正盛、忠盛、清盛と続く直系(平家)が中央政界で急速に台頭、初の武家政権を樹立する母体となった。
伊勢平氏の成立と伊勢国への定着
伊勢平氏の起源は、桓武天皇の血を引く桓武平氏の祖・平高望(高望王)の子孫にさかのぼる。高望の下向以来、平氏は坂東(関東地方)を地盤として勢力を伸ばしたが、その一派である平貞盛の五男・平維衡(これひら)が伊勢守に任じられて伊勢国に下向し、現地に土着したことが伊勢平氏の始まりである。
11世紀初頭、維衡は同じく伊勢国に勢力を持つ同族の平致頼(むねより)と激しい勢力争い(維衡・致頼の合戦)を繰り広げ、朝廷から一時は処罰されながらも、伊勢国での支配権を固めていった。この維衡の系統が伊勢国を本拠地として武士団を形成し、のちに中央の最高権力へと駆け上がる基盤となったのである。
院政との結びつきと「平家」への飛躍
伊勢平氏が地方武士から中央の軍事貴族へと飛躍を遂げる契機となったのが、11世紀末から始まる院政との結びつきである。維衡の子孫である平正盛は、白河上皇の院近臣(受領)として仕え、当時出雲国で反乱を起こしていた源義親(源義家の嫡男)を追討する大功を立てた。これにより、ライバルであった清和源氏(河内源氏)を抑えて院の絶大な信頼を獲得した。
正盛の子・平忠盛は、鳥羽上皇のもとで瀬戸内海の海賊平定に尽力し、西国武士を組織化するとともに、武士として初めて殿上人(内昇殿を許された貴族)となる異例の出世を果たした。忠盛は日宋貿易の利権にも着目し、経済的な基盤も強固なものとした。
そして忠盛の跡を継いだ平清盛の時代、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)における勝利を通じて政界の頂点に立ち、一族で公卿の地位を独占する平氏政権(平家政権)を樹立することとなった。このように、伊勢平氏の主流(清盛の一門)は単なる武士団の枠を超え、朝廷を主導する権門「平家」へと昇華していった。
地域社会に残された庶流と源平合戦
一般に「平氏の滅亡」といえば、1185年の壇ノ浦の戦いにおける清盛の系統(平家)の滅亡を指すが、伊勢平氏のすべてが滅び去ったわけではない。伊勢平氏の中には、本国である伊勢・伊賀地域に留まり続けた庶流も多く存在した。
源平合戦(治承・寿永の乱)の際、清盛の平家一門が都を落ちて西国へ逃れたのに対し、伊勢・伊賀に留まった平氏の地侍や庶流の中には、鎌倉の源頼朝に恭順して生き残りを図る者も現れた。また、平家滅亡後の1204年には、平家再興を掲げた「三日平氏の乱」などの抵抗運動も伊勢・伊賀で発生したが、鎌倉幕府によって鎮圧された。その後も、伊勢平氏の血統は伊勢・伊賀の在地領主(のちの伊勢国司北畠氏の被官など)として鎌倉・室町時代を通じて存続した。