城柵 (じょうさく)
【概説】
古代の日本において、律令国家が東北地方の蝦夷(えみし)を支配・教化するために設けた、軍事と行政を兼ね備えた最前線の防衛施設。飛鳥時代から平安時代初期にかけて日本海側・太平洋側の双方で順次築かれ、国家領域を北へと拡大する開拓・統治の拠点となった。
国家領域の拡大と城柵の北進
城柵の歴史は、7世紀半ばの飛鳥時代に遡る。大化の改新(645年)の直後、律令国家は日本海側に渟足柵(ぬたりのさく)や磐舟柵(いわふねのさく)を築き、北陸から東北へ向けて支配領域を広げ始めた。これらは単なる対外的な砦ではなく、国家の「境界」を確定し、その内側を律令支配下に組み込むための象徴でもあった。
奈良時代に入ると、国家による東北経営はさらに本格化する。太平洋側では724年に大野東人によって多賀城(宮城県多賀城市)が創建され、これが陸奥国府および鎮守府として東北支配の政治・軍事の中心地となった。一方、日本海側でも秋田城などが築かれ、出羽国の行政と防衛を担った。このように、城柵は律令国家が段階的に「北」へと版図を押し広げていく進出路に沿って配置された。
軍事と行政・教化の複合的機能
城柵は、強固な実戦用の防衛施設であると同時に、内包する役割は多岐にわたっていた。内部には役所(国庁や郡衙に準ずる施設)が置かれ、周辺地域の行政・徴税機能を果たした。また、中央から移住させられた農民である柵戸(さくこ)が城柵の周囲に配置され、未開地の開墾や防備に従事することで、国家支配の足場を固める役割を担った。
さらに、城柵は蝦夷に対する「教化」の場でもあった。国家に帰順した蝦夷(吉弥侯など)を城柵に招いて饗応し、米や布、鉄製品などの威信財を与えることで、中央政府の権威を認めさせ、部族対立をコントロールする政治工作が活発に行われた。
蝦夷の抵抗と城柵の変遷
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、過酷な開拓と抑圧に反発した蝦夷の激しい抵抗運動(いわゆる三十八年戦争)が勃発した。780年には伊治呰麻呂の乱によって多賀城が一時焼失し、789年の巣伏の戦いでは紀古佐美率いる政府軍がアテルイ(阿弖流為)らの軍に大敗を喫した。これにより、最前線の城柵は常時、軍事的緊張に晒されることとなった。
平安時代に入ると、坂上田村麻呂の征夷によって東北の軍事状況は劇的に変化する。政府軍はさらに北へと進出し、胆沢城(岩手県奥州市)や志波城(岩手県盛岡市)などの巨大な城柵を新たに築き、北上を完了させた。その後、9世紀前半の嵯峨天皇期における「徳丹城」の造営を最後に、新規の城柵建設は停止し、現地社会の安定とともに、その役割は次第に在来の郡衙等へ吸収されていった。