橘諸兄 (たちばなのもろえ)
【概説】
奈良時代中期、藤原四兄弟の死後に政権を握り、遣唐使帰りの吉備真備や玄昉を重用した皇族出身の公卿。聖武天皇を補佐して国政を主導し、鎮護国家思想に基づく国家事業を推進したが、晩年は藤原仲麻呂の台頭によって実権を失った。
皇族としての出自と臣籍降下
橘諸兄は、敏達天皇の後裔である美努王(みぬおう)を父に、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)を母として生まれた。本来は葛城王(かつらぎのおおきみ)と称する皇族であった。母の三千代が藤原不比等の後妻となり、聖武天皇の母である藤原宮子や、後の光明皇后を養育するなど宮廷内で絶大な権力を握っていたことは、彼の政治的キャリアにおいて極めて有利に働いた。736年、母が元明天皇から賜っていた「橘」の氏を受け継ぐ形で臣籍に降下し、橘宿禰諸兄(のちに橘朝臣)と名乗ることとなった。
藤原四兄弟の死と政権掌握
737年、当時の政権を独占していた藤原不比等の息子たち、いわゆる藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が、猛威を振るった天然痘によって相次いで病死した。朝廷首脳が壊滅するという未曾有の政治的空白を埋めるため、諸兄は急遽右大臣に抜擢され、国政のトップに躍り出た。彼は唐から帰国した優れた知識人である吉備真備や僧の玄昉をブレインとして重用し、大陸の最新の制度や思想を取り入れた政治改革を推進して律令国家の立て直しを図った。
藤原広嗣の乱と聖武天皇の彷徨
しかし、諸兄政権による真備・玄昉の重用は、政権中枢から追いやられた藤原氏の強い反発を招いた。740年、大宰府に左遷されていた藤原宇合の子・藤原広嗣が、真備と玄昉の排除を掲げて九州で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。反乱自体は短期間で鎮圧されたものの、これに激しく動揺した聖武天皇は、平城京を放棄して恭仁京(くにきょう)、難波京、紫香楽宮(しがらきのみや)へと次々に遷都を繰り返す「彷徨五年」と呼ばれる混乱期を招いた。諸兄はこの間、天皇の側近として恭仁京造営の中心を担い、社会不安を仏法によって鎮めようとする鎮護国家思想に基づく「国分寺建立の詔」や「大仏造立の詔」の事業を強力に推し進めた。
晩年の失脚と橘氏の没落
諸兄の権勢は、聖武天皇の譲位と孝謙天皇の即位(749年)を機に陰りを見せ始める。孝謙天皇の背後にいた光明皇太后(藤原不比等の娘)の絶大な信任を背景に、藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が紫微中台(しびちゅうだい)の長官として台頭してきたからである。諸兄は次第に国政の実権を奪われ、755年には酒の席で朝廷(聖武上皇)を批判したと密告される事件が起きた。これを機に完全に政治力を失った諸兄は、翌756年に左大臣を辞して政界を引退し、757年に失意のうちにこの世を去った。彼の死後、仲麻呂の独裁に反発した息子の橘奈良麻呂がクーデターを企てて失敗し(橘奈良麻呂の乱)、これによって橘氏は政治の表舞台から完全に退くこととなった。