聖武天皇

仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想のもと、国分寺の建立や大仏の造立を命じた天皇は誰か?
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重要度
★★★★

聖武天皇 (しょうむてんのう)

701〜756

【概説】
仏教の力で国家の平安を図る「鎮護国家」の思想に基づき、国分寺や大仏の造立を行った奈良時代の第45代天皇。激しい政争や疫病などの社会不安に直面し、度重なる遷都を行いながらも、仏教への深い帰依によって国家の安泰を目指した。その治世は国際色豊かな天平文化が華開いた時代としても知られている。

藤原氏の台頭と相次ぐ社会不安

聖武天皇(幼名:首皇子)は、文武天皇を父、藤原不比等の娘である宮子を母として生まれた。皇室と藤原氏の強い結びつきを背景に神亀元年(724)に即位したが、その治世前半は激しい政争と未曾有の災害に見舞われた時代であった。当時の政界では、皇親勢力の代表格であった長屋王が権力を握っていたが、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の策謀による神亀6年(729)の長屋王の変で自尽に追い込まれ、藤原氏の権力が確立した。

しかし、天平9年(737)に猛威を振るった天然痘(疱瘡)の大流行により、政治を主導していた藤原四兄弟が相次いで病死するという事態が発生する。この疫病は平城京の貴族のみならず全国の民衆にも多大な犠牲を強いた。その後、皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した玄昉や吉備真備を重用したが、これに反発した藤原宇合の帥・藤原広嗣が九州で反乱を起こす(天平12年、藤原広嗣の乱)。相次ぐ飢饉、大地震、疫病、そして政権中枢の動揺と地方の反乱は、若き天皇の精神に深い苦悩と恐怖を植え付けることとなった。

度重なる遷都と「彷徨五年」

藤原広嗣の乱の報に接した聖武天皇は、反乱の平定を待たずに突如として平城京を脱出し、東国への行幸を開始した。これを契機として、天皇は山背国の恭仁京(くにきょう)、摂津国の難波京(なにわきょう)、さらには近江国の紫香楽宮(しがらきのみや)へと、わずか5年の間に次々と都を移し続けた。この異常ともいえる度重なる遷都は、後世の歴史家から「彷徨五年」と呼ばれている。

この不可解な行動の背景には、既存の政治体制や怨霊の恐怖から逃れ、新しい土地で国家の再建を図ろうとする天皇の強い強迫観念があったと推測される。しかし、相次ぐ宮都の造営は民衆に莫大な負担を強い、貴族社会からの反発も根強かったため、天平17年(745)には結局、平城京へと還都せざるを得なかった。

鎮護国家思想と巨大プロジェクトの推進

現実の政治や遷都によっても社会不安を払拭できなかった聖武天皇は、次第に仏教の呪術的な力に国家の救済を求めるようになる。これが「鎮護国家」の思想である。天皇は仏教を単なる個人の信仰にとどめず、国家を統治・守護するためのシステムとして制度化しようとした。

天平13年(741)、天皇は「国分寺建立の詔」を発布し、全国の国ごとに国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立させ、国家の安泰と五穀豊穣を祈願させた。さらに天平15年(743)には、近江の紫香楽宮において「盧舎那仏造立の詔」を発し、全宇宙を照らす存在である大仏(東大寺盧舎那仏像)の造営という空前の国家プロジェクトを始動させた。

大仏造営には莫大な資材と労働力が必要であったため、当初は朝廷から弾圧されていた民間布教の指導者・行基を大僧正として起用し、その絶大な民衆動員力を利用した。このことは、国家仏教が民衆レベルの信仰と結びつき、より広範な社会的基盤を持つようになったという点で、日本仏教史上極めて重要な転換点であったといえる。

天平文化の開花と晩年

聖武天皇の治世は、遣唐使を通じて唐の進んだ制度や文化、さらにはシルクロードを経由したペルシャやインドの文物が直接もたらされた時代でもあった。平城京を中心に、仏教美術や貴族文化が国際色豊かに花開いたこの時代の文化は「天平文化」と呼ばれる。鑑真の来日や、大仏開眼供養会(天平勝宝4年、752年)の盛大な儀式は、この時代の文化的成熟の象徴である。

天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位して太上天皇(上皇)となり、自ら出家して「三宝の奴(仏・法・僧の奴隷)」と称するほど仏教に深く帰依した。天皇が存命のまま出家したのは日本史上初めてのことであった。天平勝宝8歳(756)に崩御したのち、光明皇太后によって天皇の遺愛の品々が東大寺に奉献されたが、これらが現在も正倉院宝物として奇跡的に伝えられており、聖武天皇の時代がいかに豊饒で国際的な広がりを持っていたかを今に伝えている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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