近江国 (おうみのくに)
【概説】
古代から近代にかけて、現在の滋賀県一帯に置かれた令制国。琵琶湖を抱える地理的条件から東国や北陸を結ぶ交通・軍事の要衝であり、天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)では、逃亡を図った仲麻呂が朝廷軍に追い詰められて敗死した決戦の地となった。
古代日本の要衝としての地理的・政治的意義
近江国は、日本最大の湖である琵琶湖を擁し、古くから東山道や北陸道が交差する陸海交通の結節点であった。天智天皇が近江大津宮に遷都したことからも分かるように、畿内の東の境界を守る軍事的な防衛線であり、物資輸送の根幹を握る最重要地域であった。この「都の喉元」にあたる位置関係が、奈良時代中期に発生した国家的な政変において、逃亡ルートおよび防衛ラインとしての決定的な意味を持つこととなる。
恵美押勝の乱と近江をめぐる攻防
天平宝字8年(764年)、孝謙上皇(後の称徳天皇)および道鏡への不満から挙兵した太師(太政大臣)の藤原仲麻呂(恵美押勝)は、朝廷軍の素早い軍事行動により平城京を追われた。仲麻呂は、自身の知行国であり、かつ息子らが国司を務めていた越前国や美濃国へと逃れて再起を図るため、近江国を突破するルートを選択した。
しかし、情報をいち早く察知した上皇側は、近江国の関所や要地を先制して封鎖した。特に、近江から北陸へ抜ける関門である愛発関(あらちのせき)を官軍が素早く固めたため、仲麻呂軍は退路を絶たれ、近江国内で完全に孤立することとなった。
勝野津の戦いと仲麻呂の最期
退路を失った仲麻呂軍は、琵琶湖西岸の近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市付近)へと退却し、抵抗を試みた。しかし、坂上苅田麻呂らが率いる圧倒的な官軍の前に敗北を重ね、最終的に琵琶湖畔の勝野津(かつののつ)にて仲麻呂とその一族は捕らえられ、斬首された。この近江国での戦いにより、長年政権を主導した藤原仲麻呂の一派は一掃され、平城京の政治秩序は孝謙上皇と道鏡を中心とする体制へと大きくシフトすることとなった。