風土記 (ふどき)
【概説】
713年(和銅6年)、政府(元明天皇)の命により各令制国の国司に編纂が命じられた地誌。地方の産物や土地の肥沃度、地名の由来、古老の伝承などを記録して中央に提出させたものであり、律令国家による地方支配の実態把握を目的としていた。
律令国家による地方実態の把握
8世紀初頭の日本は、大宝律令(701年)が制定され、天皇を頂点とする中央集権的な律令国家体制が本格的に稼働し始めた時期であった。国家が地方を強力に統治し、確実な徴税を行うためには、各令制国の地理的条件や産業、独自の風土といった実態を中央政府が詳細に把握することが不可欠であった。そこで713年(和銅6年)、元明天皇の命により、全国の国司に対して各国の地誌を編纂し、提出することが命じられた。これが『風土記』の始まりである。なお、「風土記」という名称は平安時代以降に用いられるようになった一般的な呼称であり、当時は単に「○○国解(げ)」などと呼ばれていたと考えられている。
和銅6年の詔における5つの報告事項
政府の詔では、以下の5つの項目について調査・記録することが厳命された。
第一に、郡や郷の名称に好字(縁起の良い漢字二文字)を付けること。第二に、金・銀・銅などの鉱物や、動植物、魚介類といった産物を記録すること。第三に、土地の肥沃度(土壌の状態)を記録すること。第四に、山川原野といった地名の由来を記録すること。そして第五に、古老に語り継がれている伝承(旧辞)を記録することである。
この命令により、全国の地名が漢字二文字に統一化されるとともに、地方の経済的価値や土着の文化が文字情報として中央政府に集約されることとなった。
現存する「五風土記」と逸文
詔を受けて全国の令制国で風土記が編纂されたはずだが、現在までまとまった形で伝わっているのは5か国のみである。その中で唯一、ほぼ完全な形で残っているのが『出雲国風土記』である。また、一部欠損があるものの大部分が残っているのが『常陸国風土記』、『播磨国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』であり、これらを総称して「五風土記」と呼ぶ。
その他の国々の風土記は散逸してしまったが、後世の書物に引用された断片が逸文(いつぶん)として残されており、そこから当時の地方の様子や失われた伝承を垣間見ることができる。
『記紀』編纂との関連と文化的意義
『風土記』の編纂は、国家の正史である『古事記』(712年完成)や『日本書紀』(720年完成)の編纂事業とほぼ同時期に行われた。『記紀』が天皇支配の正統性を主張するために中央の視点で編纂された歴史書であったのに対し、『風土記』は地方からの視点で国土や風俗を記述したものであり、両者は古代国家のイデオロギー形成において表裏一体の関係にあったと言える。
また、文化的・民俗学的にも極めて重要な史料価値を持っている。例えば『出雲国風土記』に記されている「国引き神話」など、『記紀』神話の体系には組み込まれなかった地方固有の神話や信仰のあり方が生々しく記録されており、古代日本の多様な精神世界を知るための貴重な手がかりとなっている。