厩戸王(聖徳太子)

重要度
★★★

【参考リンク】
聖徳太子(Wikipedia)

厩戸王(聖徳太子) (うまやとおう(しょうとくたいし)

574年〜622年

【概説】
推古天皇の摂政として、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣など、飛鳥時代の国制整備を主導した皇族。蘇我馬子と協調しながら新しい国家体制の構築と仏教の興隆に尽力し、天皇を中心とする中央集権国家の基礎を築いた。死後は厚い信仰の対象となり、後世に「聖徳太子」の呼称で広く親しまれることとなった。

蘇我氏との血縁と推古朝の幕開け

厩戸王は、用明天皇を父とし、穴穂部間人皇女を母として生まれた。父母ともに蘇我稲目の血を引いており、厩戸王自身も有力な豪族である蘇我氏と極めて強い血縁関係にあった。当時の大和政権は、仏教の受容や王位継承をめぐって蘇我馬子と物部守屋が激しく対立しており、587年の丁未の乱で物部氏が滅亡したのちも、崇峻天皇の暗殺事件が起きるなど政治的混乱が続いていた。

このような情勢の中、593年に日本初の女性天皇として推古天皇が即位する。厩戸王は皇太子および摂政(事実上の国政の最高責任者)として、大臣である蘇我馬子と協調しながら、内外の危機に対応するための新たな国家建設に乗り出すこととなった。

内政の改革:天皇中心の官僚制の萌芽

厩戸王の最大の功績の一つは、旧来の氏姓制度に基づく世襲的な政治体制を打破し、天皇を中心とする新たな官僚制の導入を試みたことである。603年に制定された冠位十二階は、家柄ではなく個人の才能や国家への功績に応じて地位(冠位)を授ける制度であり、有能な人材を登用すると同時に、豪族たちを天皇の臣下として序列化する狙いがあった。

翌604年には憲法十七条を制定した。これは現代の法律というよりも役人の道徳的規範・心構えを説いたものであり、第一条で「和を以て貴しと為す」と協調を重んじる一方、第三条では「詔を承りては必ず謹め」と天皇への絶対的な服従を明記した。ここには、仏教や儒教の思想を背景に、大王(天皇)を頂点とする中央集権的な国家理念が明確に示されている。

独自外交の展開と遣隋使の派遣

外交面においても、厩戸王は東アジアの国際情勢を的確に見据えた政策を展開した。589年に中国大陸では隋が南北朝を統一し、強大な帝国を築き上げていた。朝鮮半島での影響力を維持・拡大するためには、隋との関係構築が急務であった。

607年、厩戸王は小野妹子遣隋使として派遣する。このとき持参した国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と記されており、隋の皇帝・煬帝の怒りを買ったことで有名である。しかし、高句麗遠征を控えていた隋は日本との関係悪化を避けるため、答礼使として裴世清を派遣した。これは、中国の冊封体制(君臣関係)に組み込まれることなく、対等な外交関係を模索した画期的な出来事であった。また、遣隋使には高向玄理や南淵請安、旻といった留学生や学問僧が同行し、彼らが持ち帰った大陸の先進的な政治制度や文化は、のちの大化の改新の重要な原動力となった。

仏教の受容と飛鳥文化の牽引

厩戸王は深い仏教の理解者でもあり、蘇我馬子とともに仏教の保護と興隆に尽力した。飛鳥時代は日本で初めて仏教文化が花開いた時期(飛鳥文化)であり、厩戸王は摂津国に四天王寺を、斑鳩に法隆寺(斑鳩寺)を建立したと伝えられている。

さらに、仏教の経典である『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書である『三経義疏』を自ら著したとされ、単なる信仰にとどまらず、仏教の深い哲理を国家運営の精神的支柱として位置づけようとした。

「聖徳太子」の呼称と近年の歴史評価

私たちがよく知る「聖徳太子」という名称は生前の記録にはなく、彼の死後、その数々の偉業を称えるために8世紀の『日本書紀』編纂の頃から用いられ始めた尊称である。平安時代以降になると、彼の存在は一種の超人的な伝説(一度に多くの人の言葉を聞き分けたなど)とともに神格化され、「太子信仰」として広く日本人に親しまれるようになった。

近年の歴史学においては、同時代史料(法隆寺釈迦三尊像光背銘など)の表記に基づき、彼を「厩戸王」あるいは「厩戸皇子」と呼ぶのが一般的である。また、一連の改革は彼個人の単独の業績ではなく、推古天皇や蘇我馬子を含む当時の王権中枢による共同統治の結果であったとする見方が主流となっている。しかし、古代日本が国家としての形を整えていく重要な転換期において、彼が果たした象徴的かつ実践的な役割の大きさは、今日においても高く評価されている。

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