若草伽藍跡

重要度
★★

若草伽藍跡 (わかくさがらんあと)

7世紀初頭〜670年

【概説】
奈良県斑鳩町の法隆寺西院伽藍の南東に位置する、聖徳太子が建立した創建法隆寺(斑鳩寺)の遺構。天智天皇9年(670年)に焼失したという『日本書紀』の記述を考古学的に実証し、長年の謎であった「法隆寺再建・非再建論争」に終止符を打った。四天王寺式伽藍配置をとる飛鳥時代の高度な仏教文化を今に伝える極めて重要な遺跡である。

「法隆寺再建・非再建論争」への終止符

明治後期から昭和初期にかけて、日本美術史および建築史の学界において、現存する法隆寺西院伽藍が推古朝の創建当初のものか、それとも後に再建されたものかを巡り、激しい法隆寺再建・非再建論争が交わされた。『日本書紀』の天智天皇9年(670年)の条には「法隆寺災れて一屋も余ること無し」という全焼の記録があったが、現存する西院伽藍の建築様式の古風さから、平子鐸嶺らは非再建論(『日本書紀』の記述は誤りとする説)を主張し、喜田貞吉らの再建論と対立した。この論争を解決に導いたのが、1939年(昭和14年)に石田茂作らによって実施された発掘調査であった。現存する西院伽藍の南東から、焼失した古い寺院の跡、すなわち若草伽藍跡が発見されたことで、創建法隆寺が実際に一度焼失し、現在の法隆寺はその後(7世紀後半から8世紀初頭にかけて)に再建されたものであることが実証された。

伽藍配置の特徴と飛鳥仏教の歴史的意義

若草伽藍跡の発掘調査により、その伽藍配置は南から中門、塔、金堂、講堂が南北一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったことが判明した。これは、現存する法隆寺(西院伽藍)が採用している、五重塔と金堂を左右(東西)に並列させる日本独特の「法隆寺式伽藍配置」とは異なる、より古い大陸系の配置様式である。また、若草伽藍跡からは高熱で焼けた瓦や、斑鳩宮(聖徳太子の住居)との関連を示す瓦、初期の仏教壁画の破片などが多数出土した。これらの遺物は、推古朝における聖徳太子の仏教興隆政策の実態や、朝鮮半島(特に百済)からの技術導入の様子を生々しく伝えるものであり、日本の国家形成期における文化・宗教政策を解明する上で第一級の歴史的資料となっている。

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