大化
【概説】
645年の乙巳の変ののちに制定された、日本で最初となる元号。孝徳天皇の新政権下で採用され、唐の律令制度に倣った中央集権的な国家建設の始まりを象徴するものとなった。
乙巳の変による新政権の誕生と初の「建元」
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺し、権勢を振るっていた蘇我氏本宗家を滅亡させる乙巳の変(いっしのへん)が勃発した。この政変を受けて皇極天皇は退位し、同母弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となった。
この新政権発足に伴い、日本史上初めて定められた元号が「大化」である。このように新たに元号を定めることを「建元(けんげん)」と呼ぶ。「大化」の出典については中国の古典『書経』や『漢書』など諸説あるが、一般的には「大いなる徳化(立派な政治によって民衆を良い方向へ導くこと)」を意味すると解釈されている。
東アジアの国際情勢と元号制導入の歴史的意義
当時の東アジア情勢に目を向けると、中国大陸では強大な唐帝国が周辺諸国を圧倒し、朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅の三国が激しく対立する緊張状態にあった。こうした中で日本が独自の元号を導入したことには、極めて重要な政治的意味が含まれていた。
元号制とは本来、君主が空間(領土)だけでなく「時間(暦)」をも支配するという中国発祥の思想に基づくものである。周辺諸国が中国の元号を使用することは、中国皇帝への服属(冊封体制への編入)を意味した。したがって、日本が独自の元号を制定したことは、唐に対して自立した独立国としての体裁を整える外交的なアピールであると同時に、国内に向けては天皇(大王)を頂点とする強力な中央集権国家の君主であることを宣言する強いメッセージであった。
「大化の改新」の推進と元号の改元
「大化」の年間には、新政権による政治・社会の抜本的な改革が推し進められた。大化2年(646年)には改革の基本方針を示す「改新の詔」が発布され、私地私民を廃止する公地公民の理念や、新たな地方行政組織、税制の整備などが打ち出されたとされる。これらの飛鳥時代における一連の政治改革は、この元号をとって大化の改新と総称されている。
「大化」の元号は650年まで続いた。同年、穴門国(現在の山口県)から白い雉が献上されたことを瑞祥(吉兆)とした孝徳天皇により、元号は「白雉(はくち)」へと改元され、「大化」の時代は幕を閉じた。
その後の元号制の定着への道のり
日本初の元号として華々しく登場した「大化」であったが、続く「白雉」ののち、孝徳天皇の崩御後は長らく元号が途絶えることとなる。その後、天武天皇の末期に「朱鳥(しゅちょう)」が建てられるも再び断絶した。
日本の元号が恒久的な制度として定着するのは、701年に大宝律令が制定され「大宝」と建元されて以降のことである。これによって元号は法的に明確に規定され、以後の日本の歴史において現代の「令和」に至るまで一度も途切れることなく続くこととなった。「大化」は、その1300年以上に及ぶ日本の元号の歴史の第一歩として、国家形成期における象徴的な役割を果たしたのである。