近江大津宮

重要度
★★

近江大津宮 (おうみおおつのみや)

667年〜672年

【概説】
飛鳥時代後期に、中大兄皇子(天智天皇)によって現在の滋賀県大津市に造営された古代の都。白村江の戦いにおける大敗に伴う国防上の緊迫した情勢下、飛鳥から内陸の琵琶湖畔へと遷都された、極めて防衛的性格の強い短命の首都である。

遷都の背景:白村江の敗戦と「国防国家」への急転

近江大津宮(大津京)への遷都が強行された最大の要因は、当時の東アジア情勢の激変にある。663年、日本は百済復興を支援すべく朝鮮半島へ大軍を送ったが、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に歴史的大敗を喫した。これに危機感を抱いた中大兄皇子は、唐・新羅による日本本土侵攻の可能性を想定し、国家の急速な武装化に着手することとなる。

中大兄皇子は、対馬や壱岐、筑紫に防人を配置し、太宰府の防衛として水城や大野城などの朝鮮式山城を築いた。そして、海路からの侵攻に対して脆弱な位置にあった政治の中心地・飛鳥を放棄し、667年に近江大津宮へと遷都した。近江(現在の滋賀県)は、畿内を防御する「関」を設置しやすい陸上交通の要衝であり、琵琶湖の水運を利用して東国からの物資や兵力を迅速に動員できる地理的優位性を備えていた。この遷都は、飛鳥の有力豪族たちから激しい反対(『日本書紀』には「天下の言ふこと多くして、怨み詛ふ者多し」と記されている)を受けながらも、強行された極限状態の決断であった。

近江朝廷における政治改革と律令国家の胎動

遷都の翌年である668年、中大兄皇子は近江大津宮において正式に即位し、天智天皇となった。天智天皇は国防体制の整備と同時に、天皇を中心とする中央集権的な律令国家体制の構築を急いだ。近江大津宮で行われた代表的な内政改革が、日本最初の全国的な戸籍である「庚午年籍」(670年)の編纂である。これにより、民衆の把握と徴税・兵役の賦課が効率的に行える基盤が整えられた。

また、日本初の法典とされる「近江令」(その存在については諸説あり)が制定されたとされるのもこの地であり、朝廷内には「漏刻」(水時計)が設置されて社会に統一的な時間を浸透させようとする試みも始まった。近江大津宮は、単なる一時的な避難所ではなく、唐の進んだ国家制度を模倣・受容し、近代的な官僚国家へと脱皮するための実験場でもあった。額田王が詠んだ「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや」という歌は、この遷都によって引き裂かれた旧都・飛鳥への惜別の情を今に伝えている。

壬申の乱による大津宮の瓦解と歴史的意義

防衛の要として機能することが期待された近江大津宮であったが、その命脈は驚くほど短かった。671年末に天智天皇がこの地で崩御すると、翌672年には皇位継承をめぐる最大の内乱である壬申の乱が勃発する。天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)が率いる近江朝廷(大津宮)と、吉野で挙兵し東国の兵力を糾合した天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が激突した。

結果として、近江朝廷の軍勢は瀬田川の戦いなどで敗れ、大友皇子は自殺。近江大津宮は戦火に見舞われて灰燼に帰し、わずか5年で都としての歴史に幕を閉じた。勝利した大海人皇子は、再び政治の重心を飛鳥(飛鳥浄御原宮)へと戻した。近江大津宮は極めて短命であったが、国家存亡の危機において中央集権化を一気に加速させる推進力を生み出した都であり、のちの大宝律令に至る日本律令国家形成の歴史において、なくてはならない重要な過渡期を象徴する地である。

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