近江令

重要度
★★

近江令 (おうみりょう)

668年

【概説】
飛鳥時代の天智天皇の時代に制定されたとされる、日本史上最初の令(行政法)。大化の改新から始まる律令国家建設の一環として位置づけられるが、その実在については古くから学界で激しい論争が続いている。

白村江の戦いと近江令編纂の背景

近江令が制定されたとされる7世紀後半の日本(倭国)は、東アジアの緊迫した国際情勢のただ中にあった。663年、日本は百済復興を支援して白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫する。この未曾有の国家危機に対し、中大兄皇子(のちの天智天皇)は急進的な防衛体制の整備と、それを支える国内統治の強化を迫られることとなった。

天智天皇は667年に都を大和から近江大津宮へと遷し、翌668年に即位した。急激な中央集権化を進めるなかで、旧来の豪族層を統制し、天皇を中心とする国家の仕組みを明文化する必要が生じた。このような政治的緊張の中で編纂されたとされるのが、日本最初の本格的な行政法典である近江令である。編纂には、天智天皇の側近であった中臣鎌足(藤原鎌足)が深く関与したと伝えられている。

「近江令非存在説」と実在をめぐる論争

近江令に関しては、その法典が真に実在したのかという「存在論争」が古くから展開されている。実は、基本史料である『日本書紀』には「近江令」という明確な用語は見られない。天智天皇10年(671年)に「氏上たちに律法を授けた」といった抽象的な記述があるのみである。

近江令の実在を示す史料としては、平安時代初期の『弘仁格頭書』や藤原氏の伝記である『藤氏家伝』が挙げられ、これらに「近江朝に初めて律令を定む」といった旨の記述があることから、歴史学者の坂本太郎らは実在を主張した(実在説)。しかし、その後の研究において、当時の行政能力や文字普及の未熟さから、体系的な法典としての「令」を編纂するのは不可能であったとする見解(非存在説)も有力視されるようになった。非存在説では、当時の法秩序は体系的な法典ではなく、断片的な単発の行政命令(「格」に相当するもの)の集積に過ぎなかったと解釈されている。

大宝律令へと繋がる過渡期としての意義

近江令そのものの実在性には議論があるものの、天智朝において大規模な国家的法制整備の試みが行われたことは確実視されている。この時期に「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と呼ばれる日本初の全国的な戸籍が作成されたことも、法的な民衆支配・国家支配への第一歩であった。

近江令に始まる法典編纂の志向は、天武天皇による飛鳥浄御原令(689年施行)の制定へと引き継がれ、最終的に701年の大宝律令の完成によって結実することになる。近江令は、日本が中国(唐)の高度な律令制度を模倣・受容し、独自の官僚制国家へと脱皮していく過渡期における、極めて重要な歴史的指標なのである。

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