刑部省 (ぎょうぶしょう)
【概説】
大宝律令の制定にともない整備された二官八省制において、司法全般を管轄した中央官庁。律令法に基づく裁判の審理や刑罰の決定、およびそれらに付随する行刑や監獄の管理などを担当した。
律令国家における司法の中枢
飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、唐の律令制度を模範とした中央集権的な国家体制の構築が進められた。大宝律令(701年)の制定により、中央官制として「二官八省」が整備され、その八省の一つとして設置されたのが刑部省である。刑部省は、天皇や太政官の統制のもと、国家の法秩序を維持するための司法・警察機能の実務を担った。
当時の日本は、天皇を中心とする「法による統治(律令政治)」を目指しており、刑部省はその根幹をなす機関であった。それまでの氏姓制度のもとでの私的な制裁や慣習法による裁判を排し、成文化された「律(刑法)」に基づき、国家が統一的な基準で裁判や刑罰を行う象徴的な存在であったと言える。
刑部省の具体的な職掌と組織
刑部省の主な任務は、重大な犯罪に対する裁判の審理、判決の確定、そして刑罰の執行管理であった。律令法で定められた五刑(笞・杖・徒・流・死)のうち、特に重い刑罰(徒・流・死)の判定や、その前提となる法解釈の審査(「法判」)を行った。また、過失や不当な裁判に対する抗告(再審理)の受付も担当した。
組織の長である刑部卿(ぎょうぶきょう)のもとには、実務を指揮する大輔・少輔などの四等官が置かれ、さらに法解釈や裁判の実務を専門とする判事(大判事・中判事・少判事など)が配属された。これにより、恣意的な審判を防ぎ、客観的な法適用が図られた。さらに、刑部省の被官(下部組織)として、都の治安維持や監獄の管理、囚人の監視を行う囚獄司(しゅごくし)や、贓物(盗品)の管理などを行う都治部司などが置かれ、司法から行刑にいたる一貫したシステムが構築されていた。
治安維持組織の変遷と同時代的意義
飛鳥時代に端を発した律令制は、平安時代に入ると貴族社会の変容や社会情勢の変化に伴い、次第に形骸化していった。司法面においては、平安初期に嵯峨天皇によって設置された令外官である検非違使(けびいし)が急速に権限を拡大した。検非違使は本来、京都の治安維持を目的とする警察組織であったが、次第に裁判や刑の執行といった司法権全般をも掌握するようになった。
この検非違使の台頭により、律令に規定された本来の司法システムである刑部省や弾正台、衛門府などの権能は著しく縮小し、刑部省は名目的な存在へと変質していった。しかし、飛鳥時代において刑部省が創設され、法に基づく裁判制度が一時的にせよ確立されたことは、日本が古代の「氏族国家」から「法治国家」へと脱皮を遂げる上での画期的な一歩であった。