賀川豊彦
【概説】
大正・昭和期に活躍したキリスト教社会運動家、社会改良家。神戸のスラム街における貧民救済活動を出発点とし、農民運動や労働運動、協同組合運動など多方面で先駆的な役割を果たした。特に杉山元治郎とともに日本農民組合を創設し、大正デモクラシー期における社会運動の組織化に大きく貢献した人物である。
スラム街での救済活動と『死線を越えて』
賀川豊彦は徳島県に生まれ、青年期にキリスト教の洗礼を受けた。神戸神学校に在学中の1909年、神戸の貧民街であった新川スラムに身を投じ、自らもそこに住み込みながら病者や困窮者の救済活動を開始した。この実践活動の中で、貧困の原因が個人の怠惰ではなく社会の構造的欠陥にあると確信するに至る。
アメリカ留学を経て帰国した後の1920年、スラムでの実体験を基にした自伝的小説『死線を越えて』を発表した。この作品は当時の日本社会に大きな衝撃を与えて空前のベストセラーとなり、その莫大な印税はすべて貧民救済や社会運動の資金として惜しみなく投じられた。これにより、彼は社会運動家としての確固たる経済的・社会的基盤を得ることとなった。
日本農民組合の結成と社会運動の組織化
賀川の活動は個人的な救済にとどまらず、社会の仕組みそのものを改革するための組織化へと向かった。第一次世界大戦後の大正デモクラシーの興隆期において、労働運動や農民運動の指導者として台頭する。1921年には神戸の三菱・川崎両造船所の大ストライキを指導し、労働者の団結を促した。
さらに、農村における地主と小作人間の対立(小作争議)が激化する中、1922年にはキリスト教徒の農民運動家である杉山元治郎らとともに、日本初の全国的な農民組織である日本農民組合(日農)を創設した。日農は小作料の引き下げや耕作権の確立を求めて激しい争議を展開し、戦前の農民運動の中核を担う組織へと成長した。
協同組合運動の推進と国際的評価
賀川の活動のもう一つの大きな柱が、購買組合や医療組合などの協同組合運動(コープ運動)の推進である。彼は資本主義の弊害を是正し、弱者が相互扶助によって生活を防衛するための手段として協同組合を重視した。「一人は万人のために、万人は一人のために」の精神に基づき、日本初の購買組合である「神戸購買組合」などを立ち上げ、現在の生活協同組合(生協)の基礎を築いた。
戦後は世界平和運動やキリスト教伝道に尽力し、その非暴力と人道主義の姿勢は海外でも高く評価された。複数回にわたりノーベル平和賞の候補に推薦されるなど、日本を代表するキリスト教社会運動家として世界的な知名度を誇った。