肥後国(熊本城) (ひごのくに(くまもとじょう)
【概説】
関ヶ原の戦いののち、肥後一国の領主となった加藤清正によって築かれた日本屈指の名城。清正の優れた土木技術と実戦経験が詰め込まれた極めて堅固な城郭構造を持ち、後世の軍事・政治の拠点として機能した要衝。
加藤清正の肥後入国と熊本城の築城
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属して戦功を挙げた加藤清正は、それまでの肥後北半国に加え、西軍に属して処刑された小西行長の旧領(肥後南半国)を併せ、肥後一国52万石の領主となった。清正はそれまでの居城であった隈本城に代わり、茶臼山(ちゃうすやま)と呼ばれる台地に新たな城の建設を開始した。これが慶長12年(1607年)に完成した熊本城である。清正はこの機に地名の表記を「隈本」から「熊本」へと改めた。
「清正流」と称される実戦的な築城術
熊本城の最大の特徴は、「武者返し(むしゃがえし)」と称される独特の石垣である。石垣の裾部は緩やかな傾斜であるが、上部に向かうにつれて垂直に近い急勾配となるため、敵兵の侵入を物理的に防ぐ。また、清正は朝鮮出兵における蔚山(うるさん)城での過酷な籠城戦の経験を生かし、城内に120以上の井戸を掘り、畳に食用となる芋茎(ずいき)を編み込み、壁には漆喰の代わりに食用となる素材を用いるなど、徹底した備蓄対策を施した。これらの高度な築城技術はのちに「清正流」と呼ばれ、日本の城郭史上、最高峰の防衛能力を誇る城となった。
細川氏の入封と後世における歴史的意義
加藤清正の死後、2代当主の加藤忠広の代に加藤家は改易となった。代わって寛永9年(1632年)に豊前小倉から細川忠利が肥後54万石の領主として入封した。細川氏は明治維新にいたるまで肥後国を治め、熊本城を政庁として藩政の安定と文化の振興に努めた。明治時代に入ると、熊本城は陸軍の拠点(熊本鎮台)となった。明治10年(1877年)の西南戦争においては、西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を50日近くにわたって防ぎ抜き、加藤清正が築いた城の堅固さが近代戦においても極めて有効であることを実証した。