第3回帝国議会 (だいさんかいていこくぎかい)
【概説】
第1次松方正義内閣のもと、1892年5月に特別会として召集された帝国議会。直前に行われた第2回衆議院議員総選挙における政府主導の激しい「選挙干渉」に対して民党側が猛反発し、激しい対立が繰り広げられた。最終的に閣内不一致に陥った松方内閣が総辞職し、第2次伊藤博文内閣へと政権が移行する契機となった歴史的分岐点である。
選挙干渉をめぐる「民党」と政府の全面対決
第1次松方正義内閣は、前年の第2回帝国議会において予算案をめぐり衆議院(民党多数)と対立し、議会を解散した。これを受けて1892年2月に実施された第2回衆議院議員総選挙において、松方内閣の品川弥二郎内務大臣らは、政府に協力的な「吏党」を扶植し、反政府的な「民党」(立憲自由党や立憲改進党など)を排除すべく、警察を動員した過酷な選挙干渉を行った。この干渉により、全国で死傷者が多数(死者25名、負傷者約400名)出るという惨劇となった。
しかし、このような激しい弾圧にもかかわらず、選挙結果は民党側が過半数を維持した。同年5月に開会された第3回帝国議会において、怒りに燃える民党側は、選挙干渉の責任を厳しく追及する姿勢を鮮明にし、政府との対決姿勢を強めることとなった。
衆議院による政府追及と閣内不一致
議会が始まると、衆議院は内閣弾劾決議案にあたる「官紀振粛・選挙干渉に関する上奏案」を可決し、貴族院も政府の姿勢を非難する決議を行った。松方内閣は民党の切り崩しを図るなどして対抗したが、議会での混乱は避けられず、政府の予算案や法案の審議は停滞した。
この混乱の中で、政府内部からも選挙干渉を強行した品川内相や松方首相の強硬姿勢に対する批判が高まった。特に軍部(陸軍)を背景とする高島鞆之助陸相らが松方首相と対立し、閣内不一致が表面化。政権運営に行き詰まった松方内閣は、議会閉会後の1892年8月、内閣総辞職へと追い込まれた。
「超然主義」の動揺と第2次伊藤内閣の成立
第3回帝国議会における松方内閣の挫折は、明治憲法制定時に伊藤博文らが掲げた、政党の意向に左右されずに政策を遂行するという超然主義の限界を露呈させることとなった。民党の抵抗を暴力的な選挙干渉によって排除しようとした試みは完全に失敗に終わり、藩閥政府は議会(衆議院)の協力を得なければ予算すら成立させられないという現実を突きつけられた。
この危機的状況を打開するため、藩閥勢力は元老自らが表舞台に立つことを決断する。松方内閣の退陣後、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、西郷従道、井上馨ら維新の元勲たちが挙って入閣する、実力派の第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)が組織され、次なる第4回帝国議会へと引き継がれることとなった。