第1次西園寺公望内閣 (だいいちじさいおんじきんもちないかく)
【概説】
日露戦争直後の1906年1月に、立憲政友会総裁の西園寺公望が組織した内閣。軍閥・藩閥の代表である桂太郎と政権を交互に担当した「桂園時代」の最初の内閣である。日露戦後の国家体制を整備する「戦後経営」にあたり、鉄道国有法の制定や、日本社会党の結成を当初黙認するなどの柔軟な内政を展開した。
桂園時代の到来と穏健な内政
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の内容に不満を抱いた民衆は、1905年9月に日比谷焼打事件を引き起こした。これにより、戦争を指導した第1次桂太郎内閣は総辞職を余儀なくされる。その後継として政権を担当したのが、元老・伊藤博文から立憲政友会(政友会)の総裁の座を受け継いでいた西園寺公望であった。
公家出身でフランス留学経験を持つ西園寺は、自由主義的な政治姿勢を持っていた。この政権交代により、藩閥・官僚勢力を率いる桂太郎と、衆議院の第一党である政友会を率いる西園寺が、交互に首相となって政権を担当する「桂園時代(けいえんじだい)」が幕を開けた。両者は対立しつつも、妥協を図りながら政局を安定させ、大正政変に至るまでの約8年間にわたり政権を維持することとなる。
日露「戦後経営」と鉄道国有化の断行
第1次西園寺内閣の最大の課題は、日露戦争後の国家財政の立て直しと、東アジアにおける利権の確保、すなわち「戦後経営」であった。政府は、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の設立や、関東都督府・韓国統監府の設置を進め、大陸進出の基盤を固めた。
国内においては、1906年3月に鉄道国有法を制定した。これは、軍事上の要請(兵員や物資の迅速な輸送)と、経済発展に伴う国内流通網の統一という双方の目的から、主要な私鉄17社を買収して国有化するものであった。この政策によって全国的な鉄道ネットワークが国家の統制下に置かれ、日本の産業革命をさらに推進する基盤が整備された。
社会主義運動への融和と内閣の退陣
西園寺内閣は、前代の桂内閣が社会主義運動を厳しく取り締まったのに対し、融和的な態度を取った。1906年、日本初の合法的な社会主義政党である日本社会党が結成された際、西園寺は「過激な行動に走らない限り」としてこれを黙認(許可)した。しかし、党内で幸徳秋水らが唱える「直接行動論(議会政策を否定し、ゼネストなどによる革命を目指す方針)」が主流となると、内閣も態度を一変させ、翌1907年に同党を結社禁止処分とした。
さらに、1907年の足尾銅山暴動事件など労働運動の激化を受け、山県有朋ら山県系藩閥・軍部からの「社会主義の取り締まりが甘い」という批判が強まった。また、日露戦争後の軍備拡張に伴う財政難と、それに伴う増税に対する世論の不満も重なり、内閣は行き詰まりを見せる。1908年、西園寺内閣は総辞職し、再び桂太郎が政権を組織(第2次桂内閣)することとなった。