法隆寺夢殿救世観音像

重要度
★★

【参考リンク】
法隆寺(Wikipedia)

法隆寺夢殿救世観音像 (ほうりゅうじゆめどのくせかんのんぞう)

7世紀前半

【概説】
法隆寺東院伽藍の本尊である夢殿に安置されている木造の観音菩薩立像。聖徳太子の等身大の姿を写したものと伝えられ、明治時代に開扉されるまで長年にわたり白い布に包まれた「秘仏」として封印されてきた、飛鳥彫刻を代表する名作である。

「北魏様式」を今に伝える飛鳥彫刻の傑作

法隆寺夢殿救世観音像は、飛鳥時代(7世紀前半)に制作された木造の仏像である。当時の仏像の多くが銅造(金銅仏)であったなかで、本像はクスノキ(樟)の一木造で造られており、日本最古期の木彫仏の一つとしても極めて貴重である。

その造形スタイルは、中国の南北朝時代における北朝(特に北魏)の仏像様式が百済などを経て伝来した「北魏様式」を顕著に示している。鋭く切れ込んだ杏仁形(きょうにんぎょう)の目や、口元にほのかな微笑を浮かべる古拙な微笑(アルカイック・スマイル)、そして体の左右に対称的に広がる鰭状(ひれじょう)の衣の表現などがその特徴である。これらの意匠は、同じく法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像(鞍作鳥作)とも共通しており、飛鳥文化が大陸の高度な仏教美術をダイレクトに受容していた様子を現代に伝えている。

聖徳太子信仰の象徴と「絶対の秘仏」化

救世観音像が安置されている「夢殿」は、天平11年(739年)に高僧の行信が、聖徳太子(厩戸王)の斑鳩宮の跡地に太子の遺徳を偲んで建立した八角円堂である。この夢殿の本尊である救世観音像は、古くから「聖徳太子の等身像」として篤く信仰されてきた。

中世以降、聖徳太子を観音菩薩の化身とする「太子信仰」が急速に広まるにつれ、本像は聖徳太子の怨霊を封じ込めるため、あるいは神聖不可侵なものとして、何重もの白い経裂(布)で全身を緊縛され、一切の開帳を禁じられた「絶対の秘仏」となった。法隆寺の僧侶たち自身も、本像を見ることはおろか、包みを開ければたちまち天罰が下り、地震によって寺院が崩壊すると恐れ、長年にわたって厳重に守り続けてきたのである。

フェノロサらの開扉と近代美術史における意義

この約千年に及ぶ沈黙を破ったのが、明治17年(1884年)に明治政府の委託を受けて日本美術調査を行っていたお雇い外国人のアーネスト・フェノロサと、その助手であった岡倉天心であった。彼らは寺側の激しい反対を説得し、ついに夢殿の扉を開け、救世観音像を縛っていた白い布を解くことに成功した。

長い封印から目覚めた救世観音像は、長年の「秘仏」化によって外気や日光から守られていたため、制作当時の美しい漆箔(金箔)や色彩が奇跡的な保存状態で残されていた。フェノロサはこの美しさに驚嘆し、本像を美術的に世界的な傑作であると絶賛した。この発見は、明治政府が日本の伝統美術の価値を再認識し、後の古社寺保存法(文化財保護法の前身)の制定や近代における美術保護政策を推し進める決定的な契機となった。現在、救世観音像は国宝に指定され、春と秋の特別開扉の時期にのみ、その荘厳な姿を一般に公開している。

増補新装 カラー版日本美術史

日本の美意識が変遷する歴史を鮮やかな図版とともに体系化し、古代から現代まで美術の全貌を網羅した教養の書。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 飛鳥大仏や釈迦三尊像など、飛鳥時代を代表する仏像彫刻(鞍作鳥の作風)に強い影響を与えた中国の王朝(北朝)は何か?
Q. 律令制の五衛府のうち、大内裏の門の開閉や出入りする者の警備・審査を担当した役所は何か?
Q. 古墳時代の住居に新たに導入され、土師器の甕などを載せて効率よく煮炊きができるようになった土製の設備を何というか?