学童疎開
【概説】
太平洋戦争末期、激化する本土空襲から子どもを守るため、都市部の国民学校初等科の児童を農村部などへ集団避難させた政策。次世代の労働力や兵力となる「少国民」の保護などを目的とし、1944年(昭和19年)から国主導で本格的に実施された。
本土空襲の危機と「少国民」の保護
1944年(昭和19年)、太平洋戦争における日本の敗色は濃厚となり、米軍による絶対国防圏の要衝・サイパン島の陥落によって、日本本土へのB-29爆撃機による本格的な空襲が現実の脅威となった。これを受けた東條英機内閣は、大都市圏の防空体制を強化するとともに、将来の兵力や生産力となるべき子どもたち、すなわち「少国民」の生命を保護する必要に迫られた。また、都市部における食糧難を緩和し、防空活動や軍需工場での労働にあたる大人たちの足手まといにならないようにするという、治安維持や防空上の思惑も強く働いていた。
縁故疎開と集団疎開の実施
政府は当初、親類や知人を頼って地方へ避難する縁故疎開を推奨していた。しかし、地方に縁故先を持たない家庭も多く、都市部の防空の観点からも児童の疎開を徹底する必要があったため、1944年6月に「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、国主導による集団疎開へと踏み切った。対象となったのは、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都などの大都市に住む国民学校初等科の3年生から6年生(地域によっては1、2年生も含まれた)の児童であった。彼らは親元を離れ、教師や寮母の引率のもと、地方の旅館、寺院、公会堂などを宿舎として集団生活を送ることとなった。縁故疎開も含めると、最終的に約150万人以上の学童が都市を離れたとされる。
疎開先での過酷な生活
疎開先での生活は、子どもたちにとって極めて過酷なものであった。戦局の悪化に伴う深刻な食糧不足により、配給される食事は粗末で量も少なく、多くの児童が常に飢えと栄養失調に苦しんだ。また、急ごしらえの集団生活ゆえに衛生環境は悪く、シラミやノミ、疥癬などの皮膚病のほか、赤痢や腸チフスといった伝染病が蔓延することも少なくなかった。さらに、親元を離れた寂しさに加え、軍隊式の厳しい規律による生活指導、農作業の強制、地元児童との間に生じる言葉や文化の違いによる摩擦など、子どもたちは肉体的にも精神的にも多大な苦痛を強いられた。
学童疎開の悲劇と戦災孤児の問題
学童疎開は、結果的に本土空襲の猛火から多くの子どもたちの命を救った一方で、戦争がもたらす悲劇を象徴する出来事も引き起こした。1944年8月には、沖縄から九州へ向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、多数の児童が犠牲となる対馬丸事件が発生している。さらに、1945年(昭和20年)8月の終戦後、疎開先から都市部へ帰郷したものの、大規模な空襲によって両親を失い、家を焼かれたことで身寄りをなくした戦災孤児が街に溢れるという深刻な社会問題が生じた。学童疎開は、国家総力戦のもとで最も弱い存在である子どもたちの日常が奪われ、深い傷を負わされた歴史的出来事として今日に語り継がれている。