大番催促 (おおばんさいそく)
【概説】
鎌倉幕府が守護に認めた基本的かつ強力な職権である「大犯三カ条」の一つ。国内の御家人に対して、京都の内裏や鎌倉の将軍御所の警備(大番役)に出仕するよう動員・催促し、これらを指揮・統率する軍事警察的な職務。
守護の根幹権限「大犯三カ条」における位置づけ
1185年(文治元年)、源頼朝が国ごとに配置した守護の職権は、当初極めて限定的なものであった。その中核をなしたのが、のちに貞永式目(御成敗式目)において明文化される大犯三カ条(たいほんさんかじょう)である。大犯三カ条は、謀叛人の逮捕、殺害者の逮捕、そして大番催促から構成されていた。守護は行政官ではなく、あくまで臨時の軍事警察官として設置されたため、大番催促は彼らが国内の武士を動員し、幕府の軍事力を組織化するための最も重要な合法的根拠であった。
京都大番役の変遷と幕府による軍事動員体制
大番催促の主たる目的は、平安時代から続く朝廷・内裏の警備任務である京都大番役に御家人を従事させることであった。元来、この任務は朝廷が諸国の武士を直接動員して行っていたが、鎌倉幕府の成立に伴い、頼朝がその動員権を接収する形となった。これにより、朝廷の守護という大名分を保持しつつ、実質的には幕府が全国の武士に対する軍事指揮権を掌握することに成功した。承久の乱(1221年)以降は、幕府の監視機関として京都に置かれた六波羅探題の指揮のもと、守護が国内の御家人を差配して京都大番役を勤めさせる体制がさらに強固なものとなった。
御家人の負担と守護の権力強化
大番役は、御家人にとって極めて過酷な軍役であった。原則として3年に1度(のちに期間や頻度は変動)の交代制であったが、京都までの往復の旅費や現地での滞在費、食糧などはすべて御家人の自己負担であった。この重い経済的・身体的負担を国内の御家人に公平に割り振り、確実に任務を全うさせる必要があったため、守護による大番催促の権限は、国内統治において決定的な意味を持った。守護はこの動員権を背景に、単なる御家人のリーダーという立場を超えて、国一輝の武士全体に影響力を及ぼす「一国守護職」としての権力を拡大させていく契機となったのである。