土御門上皇

承久の乱には反対の立場であったが、父(後鳥羽)や弟(順徳)が流罪となったため、自ら望んで都を離れ配流された上皇は誰か?
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【参考リンク】
土御門天皇(Wikipedia)

土御門上皇 (つちみかどじょうこう)

1195 – 1231

【概説】
鎌倉時代前期の第83代天皇であり、後鳥羽天皇の第一皇子。1221年の承久の乱において倒幕計画には一切関与していなかったため幕府の処罰を免れたが、父や弟が遠島となる中で自ら望んで土佐国(のち阿波国)へ配流された上皇である。

後鳥羽院政と不本意な譲位

土御門上皇は、後鳥羽天皇の第一皇子として生まれた。母は内大臣・源通親の養女である承明門院(源在子)である。建久9年(1198年)、わずか4歳で父の譲位を受けて第83代天皇として即位したが、政治の実権はすべて父・後鳥羽上皇による院政に握られていた。

成長した土御門天皇は非常に温和な性格であったと伝えられている。しかし、鎌倉幕府の勢力を削減し、朝廷の権威復興を強烈に志向していた後鳥羽上皇にとって、この穏和な性格は物足りないものであった。後鳥羽上皇は、自らと気性が似ており倒幕にも積極的な姿勢を見せていた異母弟の守成親王(後の順徳天皇)を寵愛するようになった。その結果、承元4年(1210年)、土御門天皇は父の強い意向によって不本意ながらも順徳天皇に譲位させられ、上皇となった。

承久の乱における立場と自発的な配流

建保7年(1219年)に鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が暗殺されると、朝廷と幕府の緊張は一気に高まった。そして承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下し、承久の乱を引き起こした。この倒幕計画において、武力衝突を好まない土御門上皇は完全に蚊帳の外に置かれており、乱の勃発にも消極的・批判的な立場をとっていたとされる。

乱が朝廷側の完全な敗北に終わると、幕府は首謀者である後鳥羽上皇を隠岐国へ、順徳上皇を佐渡国へとそれぞれ配流する厳しい処分を下した。しかし、乱に全く関与していなかった土御門上皇に対しては、幕府は処罰の対象外とし、そのまま京都に留まることを認めた。

ところが、土御門上皇は「父や弟が遠流の憂き目に遭っているにもかかわらず、自分だけが都に留まって安寧に暮らすのは忍びない」として、自らも配流されることを幕府に強く申し出た。幕府はこの孝心と兄弟愛に満ちた懇願をむげに断りきれず、土御門上皇を土佐国へ遷幸させることとした。その後、幕府の配慮によってより都に近い阿波国に移され、寛喜3年(1231年)に同地で崩御するまで、政治の表舞台に出ることなく静かな余生を送った。

土御門血統の復権と歴史的意義

土御門上皇自身の政治的影響力は生涯を通じて小さなものであったが、その「承久の乱に関与しなかった」という事実が、死後に歴史を大きく動かすこととなる。

仁治3年(1242年)、当時の四条天皇がわずか12歳で不慮の事故により崩御し、朝廷では次期天皇を巡る皇位継承問題が発生した。京都の公家たちは順徳上皇の皇子である忠成王の擁立を図ったが、当時の執権・北条泰時は「承久の乱の首謀者である順徳の血筋を皇位につけることは断じて認められない」とこれに強く反対した。その代わりとして幕府が推挙したのが、乱に無関係であった土御門上皇の皇子・邦仁王であった。幕府の強力な後ろ盾を得て即位した邦仁王は後嵯峨天皇となり、これを機に土御門上皇の血統が皇位に復帰を果たした。

その後の皇室は、後嵯峨天皇の系譜から持明院統と大覚寺統(南北朝時代)に分かれながらも、今日に至るまで途切れることなく続いていく。すなわち、土御門上皇が武力闘争を退け、非運を受け入れて自ら流罪を望んだその誠実な姿勢こそが、結果として現在まで連なる皇室の系譜を紡ぐ決定的な要因となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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