和田合戦

1213年、北条義時の挑発に憤激した和田義盛が挙兵したが、敗れて一族もろとも滅亡した事件を何というか?
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★★★

【参考リンク】
和田合戦(Wikipedia)

和田合戦 (わだがっせん)

1213年

【概説】
1213年(建暦3年)、鎌倉幕府の初代侍所別当であった和田義盛が、幕府の実権掌握を狙う北条義時と対立して挙兵し、敗死した事件。この合戦に勝利した義時は政務と軍事の両権力を手中に収め、北条氏による執権政治が確立する決定的な契機となった。

北条氏による他氏排斥と和田義盛の存在

源頼朝の死後、鎌倉幕府では将軍の独裁を抑えるための「十三人の合議制」が敷かれたが、内部では有力御家人同士の激しい権力闘争が繰り広げられた。北条時政・北条義時父子は、梶原景時、比企能員、畠山重忠といった幕府創設の功臣を次々と滅ぼし、幕府内での覇権を拡大していった。その中で、頼朝挙兵時からの重臣であり、幕府の軍事・警察を統括する侍所別当の地位にあった和田義盛は、北条氏が独裁体制を築く上で最後に立ちはだかる最大の障壁となっていた。

泉親衡の乱と義時による巧妙な挑発

1213年(建暦3年)2月、信濃国の御家人・泉親衡が第2代将軍源頼家の遺児(千寿丸)を擁立して北条義時打倒を企てた計画が露見する(泉親衡の乱)。この事件に義盛の息子たちや甥の和田胤長が連座して捕縛された。義盛は将軍・源実朝に一族の赦免を懇願し、息子たちの罪は許されたものの、胤長については義時が強硬に反対して流罪とされた。

さらに義時は、縛り上げた胤長を義盛の面前で見せしめとして引き立てたり、義盛が拝領を望んだ胤長の旧邸を没収して北条氏の家臣に与えたりするなど、故意に義盛の面目を潰す冷酷な挑発を繰り返した。これにより、幕府への忠誠心が高かった義盛もついに武力蜂起を決意することとなる。

三浦義村の離反と鎌倉での市街戦

同年5月、義盛は一族を挙げて挙兵した。この際、義盛は同族である有力御家人の三浦義村と起請文を交わして強固な同盟を結んでいたが、義村は土壇場で変心し、北条義時に義盛の挙兵計画を密告した。三浦氏の裏切りにより出鼻を挫かれた和田勢であったが、将軍御所(大倉御所)を襲撃し、鎌倉市街を舞台に数日間にわたる大規模で激しい市街戦が展開された。

和田勢は勇猛に戦い、一時は幕府軍を圧倒したものの、将軍実朝を擁護して「官軍」としての立場を確保した義時側に、近隣から御家人が次々と加勢した。次第に兵力差で圧倒されていった和田勢は崩壊し、最終的に義盛は討ち死に、和田一族は滅亡した。

和田合戦の歴史的意義――執権政治の確立

和田合戦の結果は、鎌倉幕府の政治体制に決定的な変化をもたらした。合戦後、北条義時は義盛に代わって侍所別当に就任した。すでに大江広元と並んで一般政務・財政を司る政所別当を務めていた義時は、これにより幕府の軍事・警察権と政務の両方を一手に掌握することとなった。

この「政所別当と侍所別当の兼任」をもって、北条氏による執権政治が名実ともに確立したと歴史的に評価されている。和田合戦は、単なる御家人同士の私闘にとどまらず、北条氏が鎌倉幕府における絶対的な指導権を確立するための総仕上げとしての重要な意義を持っているのである。

『吾妻鏡』でたどる 北条義時の生涯 (小径選書)

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蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡 (動乱の東国史 3)

モンゴル帝国の襲来という国難に対し、御恩と奉公の論理が揺らぎゆく中で崩壊へと向かった鎌倉幕府の終焉を描く書。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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