右近衛大将 (うこんえのたいしょう)
【概説】
律令制における天皇直属の親衛隊である「近衛府(右近衛府)」の最高指揮官。1190年に上洛した源頼朝が任命されたことで、武家棟梁の格式と正統性を示す象徴的な官職として歴史上極めて重要な意味を持つに至った。
律令制における軍事エリートの最高峰
律令制下の二官八省とは別に、天皇の身辺警護や内裏の守護、行幸の供奉を担う組織として近衛府(左右に分割)が置かれていた。その長官である「大将」は、原則として従三位(のちに二位・三位の公卿が兼任)相当の極めて格式高い官職である。近衛大将は朝廷の最高軍事指揮官であると同時に、名門貴族である摂関家や清華家などの公家が大臣・大将を兼ねるなど、政治的にも中枢を占めるエリートが就くポストであった。このため、武力をもって台頭した武士にとって、右近衛大将(および左近衛大将)は極めて憧憬の強い、権威ある官職であった。
源頼朝の任官と「幕府」の誕生
1190年(建久元年)、東国を平定した源頼朝は初めて上洛し、後白河法皇との謁見を経て右近衛大将(右大将)に任命された。これは、頼朝が東国の地域権力から、名実ともに日本全国の武力を統括する「国家の公式な軍事責任者」として朝廷から公認されたことを意味する。古代中国において、近衛大将の居館や軍の指揮所を「幕府」と呼んだことから、頼朝の武家政権が「幕府」と呼ばれる政治的根拠はこの右近衛大将への任官に由来する。頼朝はわずか半月ほどでこの職を辞任するが、その後も「前右大将(さきのみぎたいしょう、右大将家)」と尊称され、その権威を大いに政治利用した。
武家棟梁の象徴としての継承
頼朝にとって右近衛大将の官職は、1192年に任命される征夷大将軍と同等、あるいはそれ以上に自身の正統性を担保する重要なものであった。この先例により、鎌倉幕府の後継者である源頼家、源実朝もそれぞれ右近衛大将(あるいは左近衛大将)に任じられ、源氏将軍の格式となった。のちの室町幕府や江戸幕府の歴代将軍にとっても、征夷大将軍への就任と前後して左右の近衛大将を兼任・経歴することは、武家の棟梁たる武家源氏の正統な後継者であることを内外に示すための不可欠な儀礼的プロセスとなった。