公暁 (くぎょう)
【概説】
鎌倉時代前期の僧侶で、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の子。叔父である第3代将軍・源実朝を鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺し、源氏将軍家の直系を断絶させる契機を作った人物である。
源氏将軍家の確執と公暁の出自
公暁は、鎌倉幕府を創設した源頼朝の孫であり、第2代将軍・源頼家の次男として生まれた。幼名は善哉(ぜんざい)といった。しかし、父である頼家は比企能員の変に巻き込まれて失脚し、伊豆修禅寺に幽閉された後に暗殺されてしまう。代わって叔父である源実朝が第3代将軍に就任したことで、幼い公暁は将軍後継の座から遠ざけられることとなった。
公暁は、祖母である北条政子の意向により出家し、仏門に入ることとなった。叔父・実朝の猶子(養子)となった後に京都の園城寺(三井寺)へ上って修行を重ね、1217年に鎌倉へと戻って鶴岡八幡宮の別当(長官)に就任した。一見すると宗教界のエリートとしての道を歩んでいた公暁であったが、心の中では父・頼家の非業の死に対する恨みと、自身が源氏の正統な後継者であるという執念を抱き続けていたとされる。
実朝暗殺事件と「黒幕」をめぐる謎
建保7年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮において、実朝の右大臣昇進を祝う拝賀の儀式が執り行われた。夜半、雪が降り積もる中で参拝を終えて石段を下りてきた実朝を、頭巾で顔を隠した公暁が襲撃した。公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫んで実朝の首をはね、同時に実朝の先導を務めていた源仲章を、北条義時と誤認して殺害したと伝えられている。
実朝の首を手にした公暁は、自らの乳母の夫であり、頼家派の残党ともつながりの深かった有力御家人・三浦義村に使者を送り、次の将軍への擁立を促した。しかし、事態の重大性を察した義村は北条義時と合議の上で公暁を切り捨てることを決断。義村の放った刺客によって、公暁はその日のうちに討ち取られた。享年20(満19歳)の若さであった。
この事件は、単なる公暁の私怨や野心による暴走にとどまらず、幕府の主導権を握ろうとした執権・北条義時や、北条氏に対抗しようとした三浦義村、あるいは幕府の弱体化を画策した朝廷(後鳥羽上皇)などが背後で糸を引いていたとする「黒幕説」が、古くから歴史学者の間で議論され続けている。
源氏直系の断絶と執権政治への移行
公暁による実朝暗殺と、直後の公暁自身の敗死により、源頼朝の直系である源氏の正嗣(将軍直系)は3代で完全に途絶えることとなった。これは鎌倉幕府の権力構造に決定的な転換をもたらした。将軍を失った幕府は、後鳥羽上皇に対して皇族を将軍として迎える「親王将軍」を求めたが拒絶され、最終的に摂関家から幼い藤原頼経を迎えて「摂家将軍」を擁立することとなる。
将軍不在を契機とする幕府の動揺は、朝廷側に対して幕府打倒の好機と捉えられ、1221年の承久の乱を引き起こす最大の要因となった。また、承久の乱に勝利した幕府内では、北条氏が「執権」としての地位を揺るぎないものとし、将軍を形骸化させた執権政治(北条氏の専制政治)が確立されることとなった。公暁の犯行は、図らずも源氏の支配を終わらせ、鎌倉幕府を「北条氏の国家」へと変質させる歴史の大きな分岐点となったのである。